-第9話 「希望の海に船いだせ」-

2010年12月

雄大な海。はるか未知なる世界に続き、そこにいかなる試練があろうとも若人の夢と希望を誘います。
新しい時代と自らの人生を拓く「スピリット」の象徴として、船や海をシンボルとした校章があります。
今回はそうした校章めぐりの「航海」をいたしましょう。

「新たな時代の 風 はこべ」

図1 長崎大学

図1 長崎大学

長崎大学は「帆船マーク」で有名(図1)。その認知度は「全国区」かもしれません。
このデザインについて、原案者の永井 元(はじめ)氏(元長崎大学熱帯医学研究所事務長)はこう説明しています。
「長崎と言えば出島、そして鎖国の窓とし、オランダ船がもたらした西洋文明によって、日本は開国とともに急速な近代国家への脱皮ができたので、長崎とオランダの関わりを表現してみたのです(「長崎大学五十年史」より引用)」。

戦後の新学制移行にあたり、旧制の長崎医科大学、長崎医科大学附属薬学専門部、長崎医科大学附属医学専門部、長崎高等学校、長崎経済専門学校、長崎師範学校、長崎青年師範学校は、新制長崎大学として一つに統合しました。
これら各校を基礎としながらも、新制総合大学として全学が一体となり、構成員の連帯意識を高める拠り所となるシンボルマークが欲しい。
そんな機運の高まりを受けてデザインの学内募集を行い、旧医科大学のバッチを手直しして採用されたのがこの帆船マークです。

デザイン原案者永井元氏のご実兄は永井隆博士。「長崎の鐘」の著書やそれを題材にした名曲でも有名です。
永井博士は戦時下の劣悪な環境の中、旧制長崎医大で放射線治療の研究と診療に尽力します。
その結果、ご自身への被曝が進み白血病を発症してしまいます。
さらに長崎での原子爆弾被爆。
こうした過酷な試練にもかかわらず、不屈の意志とキリスト教の篤い信仰心をもって、可能な限りに被爆市民への献身的な救護活動を続けました。
その43年の生涯には平和や信仰に関する著作も多く残します。

弟君の永井元氏は、帆船マーク発案当時をこう語っています。
「終戦直後の医大・薬専は原爆被害で全くの廃墟。再起復興へ向けて大学人は苦難の道を歩いていた時期であり、荒廃した世相の中で一致団結して事にあたろうとの意欲を、何かに求めようとする大学の発想がバッチをつくるきっかけとなったわけです」。

人々から愛されている長崎大学の爽快な帆船マーク。
しかしそこには、平和を支える新しい文化と科学の時代に出航しようとする長崎大学の強い決意と情熱が込められていることでしょう。

「小舟を導く聖なる海星」

図2 神戸海星女子学院大学

図2 神戸海星女子学院大学

神戸海星女子学院(図2)は、キリスト教精神を基礎とする幼稚園から大学までの女子総合学園です。
同学院の名前は、キリストの母である聖母マリアの「海の星」という愛称に由来しています。
その学章には波間を進む小舟とこれを照らすマリアの星が示され、ここに「STELLA MARIS(海の星)」の言葉が刻まれています。

学院のホームページでは、学章の由来を次のように説明しています。
「聖母マリアはすべての女性の理想です。この大学で学ぶ学生たちが、聖母マリアの保護をいただいていることをシンボルとして表しているのがこの学章です。
海は人生を、小舟は人生の旅を、そして飛球は人生の戦いを表しています。
まだ、機械文明が発達していなかった昔、大海原を進んで行く船は、いつも夜空に光る星を目印として航海していたものでした。
人生という旅路を小さな舟で航海している学生一人ひとりは、激しい嵐で方向を見失いそうになることもあるでしょう。
そのとき、「海の星」として夜空に輝く星のように、聖母マリアがその船路を導いてくださることをこの学章は表しています。」

卒業生さん達も、たとえバッチをつけていなくとも、それぞれの心にこの教えを刻み込んでいることでしょう。
阪急電車王子公園駅から少し三宮寄りに行ったところで山側を見ると、遠くに同学院のマリア像が見えます。

「海の学徒のコンパスマーク」

2003年(平成15年)10月、ともに伝統と特色ある東京商船大学と東京水産大学が統合し、東京海洋大学が発足しました。
海洋に関する研究と教育に特化した国立大学では唯一の大学です。
統合を機に、2つの波が一体となった海洋大学らしい新しいシンボルマークも制定されています。

図3 旧東京商船大学

図3 旧東京商船大学

今回は東京海洋大学の前身校、かつての東京商船大学の校章(図3)をご紹介しましょう。
同校は、1882(明治15)年に私立三菱商船学校から農商務省に移管されて官立の東京商船学校となった折に「羅盤八方鍼(コンパス、羅針盤)」のデザインを校章と定めています。
その後、東京高等商船学校(1925年)、東京商船大学(1949年)と続く発展の系譜にあっても、このコンパスマークが継承されます。

旧東京水産大学や旧神戸商船大学(現:神戸大学海事科学部)も、それぞれコンパスマークをデザインした校章を採用していました。
コンパスマークは、海を学ぶ学生達の誇り高きシンボルだったのです。

さて、東京海洋大学の海洋工学部(旧東京商船大学)がある越中島キャンパスは見所満載。
関東大震災後に建築された東京高等商船学校時代の本館や図書館、天体観測用のドーム、旧東京水産大学の前身だった水産講習所の本館など、昭和前期大学建築の好例が並びます。
スクラッチタイル貼りの外壁や、半円形の大アーチをもつ正面玄関など、シンプルながら重厚な風格。
正門を右手に進めば百周年記念資料館。旧東京商船大学100年の歴史を踏まえた商船教育史とその周辺の海事史にまつわる資料が展示され、かなりじっくり満喫できます。
キャンパスに陸揚げされた帆船の明治丸は国の重要文化財です。

「青海原に 我等が想い」

図4 横浜国立大学

図4 横浜国立大学

横浜国立大学の学章(図4)は、大学の文字を中央におき、地を「静海波(せいがいは)」にして周囲を角切(すみきり)の四角に形取りしたものです。
四角の形が国立大学の「国」の字を連想させるデザインです。

この学章が発案された経緯について、「工学部五十年史」の記載をもとにご紹介しましょう。
横浜にあった横浜経済専門学校・横浜工業専門学校・神奈川師範学校・神奈川青年師範学校などの旧制官立高等教育機関が統合し、新制大学として1949(昭和24)年に横浜国立大学が設置されました。
当時、学生さん達が着用していた制服は旧制時代のままの詰め襟で、帽章も他の大学と同じデザインの「大学」文字章。
新制大学ひしめく中で、これではどこの大学かわからない。
そこで工学部においては、学生服の襟につけるバッチのデザインを学内で募集し、採用されたのがこのマークでした。
それが工学部では評判よく、サークル活動などでも使用され、やがて全学的に用いられるようになったそうです。

「静海波」とは縁起物の吉祥紋様。波のうねりを表す半円が重なり合って扇形となり、それがどこまでも続いていく穏やかな海の様子を表現しています。
静かな海のように平穏無事な日々がいつまでも続き、やがて末広がりの扇のように幸い訪れることを願い、古くから衣服や器の紋様として愛されてきました。
このゆかしき意匠を使ったのが横浜国大の学章です。

現在、横浜国立大学では、スクールカラーのブルーを配したシンプルでスマートな「YNU」のロゴマークを制定しています。
こちらもさすがヨコハマのセンスです。

「いただく徽章も 波こそ えがけ」

図5 旧制浪速高等学校

図5 旧制浪速高等学校

旧制浪速(なにわ)高等学校(図5)は、大阪府立の七年制高等学校として1926(大正15)年に設置されました。
歌枕としても名高い「待兼山(まちかねやま)」の山腹に建てられた近代的設備5階のモダンな高等学校でした。
生徒さん達は七年制高校特有の都会的な雰囲気をもっていたそうです。
「通学電車では、女学生達の視線がまぶしかったものだ」と、あるオールドボーイの幸せな回顧談。

同校校歌は、作詞が土井晩翠、作曲は山田耕筰というゴールデンコンビ。
その歌詞冒頭は『高等学校「浪速」を名とし、いただく徽章も波こそ畫(えが)け』と始まります。
これにあるよう校章は、躍る白浪に包まれた「髙」の文字、それを立体的に銀の台座にあしらっています。
「浪速」にちなむ白浪は社会の「荒波」も象徴し、「浪高健児よ、荒波に負けるな」と教えます。

戦後の学制改革にともない、旧制浪速高等学校は国立に移管され、旧制大阪高等学校(官立)とともに新制大阪大学に包括されました。
浪速高等学校の敷地でもあった大阪大学豊中キャンパスには、当時の建物が残っています。
「イ号館」と呼ばれる旧浪速高等学校本館(1929年建造)は、アールデコ調のデザイン。国の登録有形文化財です。
その内装外装の意匠修復・再現にあわせ、未来志向の様々な活動にも資する機能整備計画も進み、2011年には大学の新しいシンボルとなる「大阪大学会館」が竣工します。
浪高創立85年を記念した「旧制浪高生の像」も建てられました。
豊中キャンパスには、大阪大学が包摂したもう一つの旧制高校、官立大阪高等学校を記念した「大高の森」もつくられています。
ここには大高跡地(現:大阪市阿倍野区)から移設された大高生徒のモニュメント「青春の像」があります。

海や波にちなむ校章は、この他に東海大学や芝浦工業大学、静岡大学(第6話)でも採用しています。

さて、次回は「真・善・美」にちなむ校章を紹介いたしましょう。