潮木守一(うしおぎもりかず) 先生

【第1回】  生い立ushiogi

【第2回】  「高等教育」との出会い

【第3回】  これまでの研究生活

【第4回】  若い高等教育研究者のために
——————————————————————————————-   

【第1回】 生い立ち

 生まれ育ったのは、神奈川県横須賀市、軍港の町であった。横須賀には日露海戦でバルティック艦隊を打ち破った軍艦三笠が記念碑として保存されている。我々世代は、この軍艦三笠の辿った数奇な運命を、目の前で目撃した。

 戦争中は、伝統ある日本海軍の栄光を讃える記念碑として、多くの観客を集めた。少年時代の私もその艦橋に登り、ここは東郷元帥が立って作戦を指揮したところ、ここのへこみは旅順港海戦のときにできた跡、ここは対馬沖海戦のときの跡と、それを見ながら、軍国少年の胸を膨らませたりした。

 ところが敗戦となり、軍艦三笠の置かれた地域は、米軍に接収され、我々日本人は立ち入れなくなった。フェンス越しにみる三笠は、みるみるうちに姿を変えていった。まず大砲が取り外され、煙突がはずされ、艦橋が取り去れて、瞬く間にペタンコな、哀れな姿になってしまった。そのうちに、あろうことか、船体全体がピンクのペンキで塗りたてられた。内部は米軍用のダンスホールに変わったという。この話に横須賀市民はこぞって怒った。怒りはしたものの、その当時の占領軍は絶対だった。「えりも選ってダンスホールとは、何事だ」と涙を流して悔しがる老人がいた。

 そのうちに米軍は要らなくなったのか、飽きたのか、ペタンコな船体だけになった三笠を民間企業に払い下げた。払い下げてもらっても、鉄屑同然の三笠はもてあまし、その会社は水族館に作り変えた。元軍艦だから、舷側に丸い窓がいくつも並んでいる。船の外側にコンクリの壁を作り、その壁と船体の間に、水を入れ、丸穴ごとに仕切りを作り、そこに魚を入れて、それを船の中からみせるのだ。戦争に負けるということは、こういうことかと、子供心に情けなかった。

 ちょうどその頃、朝鮮事変が勃発し、鉄の値段が高騰しだした。そこで企業は、たいして儲からない水族館を閉鎖し、まだ残っている鉄類を剥ぎ取って売却した。哀れな姿がますます哀れになった。それとともに、市民の軍艦三笠に対する関心は急速に薄れ、かつての軍国少年の関心からも去っていった。

 我々が高校生ぐらいの頃か、一人のイギリス人貿易商が横須賀を訪れ、変わり果てた三笠を見て驚いたという。そのイギリス人は少年時代、ヴィッカーズ造船所で三笠の進水式を見ていたという。やがてその三笠がロシアのバルティック艦隊を破ったとニュースで聞き、自分のことのように誇りにしていたという。

 その栄光ある三笠の見るも哀れな姿を発見し、その貿易商は、たとえ敗戦したとはいえ、かつての栄光と誇りを忘れ果てた日本人を怒った。そして三笠の惨状をジャパン・タイムズに投稿した。そこでアメリカ占領軍が動き出し、市民の間からも復元・保存の声が上がり、軍艦三笠の復元・保存が始まったという。その頃は私はもう横須賀を離れていたので、風の便りにそのような話を耳にしただけである。
 
横須賀には軍艦三笠とともに、東洋一を誇る軍艦を建造するための巨大クレーンがあった。戦争中一時期、周囲が囲われ、内部がすっかり見えなくなったことがある。たぶんその時、巨大航空母艦、信濃が建造されたはずである。戦後、このクレーンが賠償として中国に持っていかれるという話が流れた。この時もまた、横須賀市民は憤激の声を上げた。大人達がどういう言葉で怒ったのかは、あまりにも差別的なので、ここでは書けない。私の少年時代は、こうして大日本帝国の栄光と没落を、目の前で目撃する少年時代だった。それがその後の成長にどのような痕跡を残したのか、誰か分析して欲しい。
   
【第2回】 「高等教育」との出会い

 高等教育との最初の出会いは、当然のことながら、入学した大学との出会いである。他のところにも書いたので、繰り返したくはないが、入学したところは、東京大学教養学部文科一類というところだった。要するに法学部か経済学部に進学するコースである。18歳の青年の前に登場したのは、マルクスだった。高校時代は理系人間だったので、法則には関心があった。自然界が法則によって支配されていることは分かっていたが、歴史にも法則があるという話しをはじめて聞いて驚いた。はじめは世の中は、とうてい法則通りには動いていない面ばかりが目立った。ところがそのうちに、やはり大きなところは法則で動いているのではないか、そんな気がしてきた。

 もちろん、マルクスといっても「資本論」を読んだわけではない。大内兵衛とか向坂逸郎、河上肇などの本から、それを知った。忘れられないのは、清水幾太郎であった。あの切れ味のよい文章に魅了された。しばらくは清水幾太郎の文章ばかりを読んでいた。

 やがて本郷に進学する時期を迎え、はたと考え込んだ。おとなしくしていれば、法学部あたりに進学して、役人か会社員になったのだろう。しかし、大学2年生ころには、サラリーマン人生も役人人生も、嫌になっていた。

 どこか別のコースはないか、いろいろ探しているうちに、教育学部は人気が無くて、定員があいていることを知った。進学先は教育学部と書いた書類を提出しにいったら、教養学部の事務の人がやめろといった。本郷から進学してからは、やるとしたら教育社会学だと思った。自分の関心に一番近いと感じたからである。

 正直にいえば、教育に関心があったのではない。関心があったのは、人間が教育という名のもとに、いかにかけ離れたことをするのかという点であった。たとえば、東大では教養学部時代の平均成績で、進学先を割り振っている。人気のある学科、そうでない学科、それぞれの値段が決まる。文科一類の進学先は法学部か経済学部だから、学生は騒がない。ところがそれ以外の科類の学生は、目の色を変えて、コンマ以下の成績を争っている。なぜこれほど醜悪なことが平気で行われているのか、不思議だった。

 教育社会学に標的を定めてからは、教育と階層移動に焦点を当てることにした。それも国際比較をやるという野望を立てた。ただ、はじめは決定的にデータが足りなかったが、それでも丹念にデータを集めていた。いくつかの指標を手がかりに、比較をしていたが、そのうちに、いくら数字をいじっても多寡が知れていることが分かった。そこでそういう数字の裏側にある「人々の思い」を掴もうとした。つまり数字の世界から文字の世界に重点を移し変えた。

 私の場合には、大学院生活がない。学部を卒業すると、すぐ助手になった。だからいまだかって「研究指導」というものを受けたことがない。万事は自分でするしかなかった。途中で学位が無くては困るというので(かつては、学士は称号で、学位ではなかった)、30歳台半ばで論文を提出して博士号を貰った。

 博士論文に選んだテーマなど、あの当時周囲でやっている人が誰もいなかった。だいたいドイツ語の文献など、ふつうだったら、文献購読の時間があって、そこで手ほどきを受けるのだろうが、私の場合には、それがまったくなかった。分かったような、分からないような文章に出会っても、相談できる人がいなくて困った。しかし、もともと教育社会学を選んだ動機が、以上のようなものだったから、自業自得と思って諦めるしかなかった。
   
【第3回】 これまでの研究生活

 これまでいくつか本を書いてきたが、その一つ一つに思い出がある。「ドイツの大学」(1992年。講談社学術文庫)は博士論文の穴を埋めるつもりで書いた。ふつうドイツの大学を書くなら、フンボルト理念から書きはじめるのが、王道だろう。それを敢えて無視して、学園紛争から書き起こした。おそらく多くの人が、邪道と思ったことだろう。それ以前に「アメリカの大学」(1993年。講談社学術文庫)を書いたが、それもまた学園紛争から書き起こした。

 その当時の問題意識は、社会学の用語を使えば「社会化」であり、「隠されたカリキュラム」であった。それぞれの国の大学を見るとき、眼をつけたのは、何が教えられたかではなく、学生が何を学んだかという点であった。ということは、要するに制度史の限界を破りたかった。何年にどういう講座ができて、学部ができて、カリキュラムがこう変わって、そういうことを細々追いかけることが、どれだけ意味があるのか、まったく理解できなかった。むしろ人間を書きたかった。人間の思いを書きたかった。それも綺麗事ではなく、生の声を書きたかった。

 その点で、一番インパクトがあったのは、アメリカの研究者の書いたものだった。彼等の歴史叙述がきわめて新鮮であった。だいたい大学史などというものは、創設記念日に合わせて作られることが多い。だからお目出度い話ばかりが並ぶ。ところが、よく読んでゆくと、他人に知られたくないこと、隠しておきたいことが、ところどころ頭を出している。一頃は、そのような話ばかり探していた。後から思うと、自分ながら根性が卑しくなっていくような気がした。格好よくいえば、リアリティを探るということだろうが、書いている当人の内面はやや違っていた。

 「近代ドイツ科学を支えた官僚」(中公新書。1993年刊行)を書いた頃は、自分の思いを書くというより、こういう書き方をしたら、世間はどう反応するか、それを確かめるために書いた。アルトホーフといった人物は、いろいろな描き方ができる。また国家と大学との関係も、いろいろな書き方ができる。こういう書き方をしたら、世の中はどういう反応をするか。あえて一石を投じる気持ちで、あの本を書いた。

 世間の反応は予想した通りだった。大学教師には怒られた。「あんなことを書いて、文部官僚が強腰になったら、どう責任をとるつもりだ」と脅された。しかし、それは「想定の範囲内」だったので、気にはならなかった。肝心な官僚達の反応は、さまざまだった。なかには「あれだけの権限が欲しい」と正直にいう人もいた。また「あの時代は個人芸ができたでしょうが、今の時代はさまざまな利害関係が錯綜しているから、ああはできませんよ」という人もいた。また「考えさせる問題ですね」という人もいった。著者からすれば、一番欲しかったのは、「考えてくれる」ことであった。あの本は考えてもらうための材料を提供する目的で書いた。官僚よりもむしろ大学教師にもっと考えてもらいたかった。その目的がどの程度達せられたのかは、いまだによく分からない。

 「京都帝国大学の挑戦」もまた、考える素材を提供するつもりで書いた。世の中には、「あいつは昔話しか書かない。19世紀に凝り固まっている」とけなす人がいるようだが、私自身は一度も昔話を書いたつもりがない。過去に起きたことを書けば、昔話だという発想が、そもそも理解できない。いつも現在われわれが当面している問題、これから当面するだろう問題を、頭のなかに思い浮かべながら書いてきた。それが読者に伝わらないとしたら、こちらの追求が、まだまだ未熟だからなのだろう。

 ごく最近(2006年7月)、過去15年間ほど、さまざまな改革に巻き込まれた経緯と、その時の経験を一冊にまとめた(「大学再生への具体像」(東信堂))。この本ではこれまでの経験をもとに、10数項目の「具体的提案」を提起した。これは、叩かれることは覚悟の上である。ただ叩けば叩くほど、人々は「考えてくれる」だろう。それを密かに期待した。果たしてどうなるかは、これからの問題である。

 【第4回】 若い高等教育研究者のために

 若い研究者に何をいうべきか、戸惑っている。私のようなやり方は、どう考えても、他人には勧められない。反面教師として使ってもらうのだったらよい。しょせん誰しもその人なりのやり方しかできないのだから、その人なりに考えてもらうしかない。ただ一つ注意しておきたいことは、研究者とは知らず知らずのうちに、自宅と大学の間を往復するだけの人種になり勝ちだということである。だんだん経験の範囲が狭くなる。発想の幅が狭くなる。だからできるだけ機会を見つけて、異領域交流、異業種交流をする必要がある。

 それから、世の中には「物凄い人」がいることを知ってもらいたい。私自身これまで本当に「物凄い人」に、何回も出会った。こういう人々から受けるインパクトと驚きが、いちばん肥やしになった。それではそういう「物凄い人」に出会うには、どうしたらよいのかと聞かれるが、これは答えようがない。ある日突如偶然にやってくるとしか、いいようがない。事実、これまでがそうだった。

 異領域交流、異業種交流、凄い人との出会い。すべて共通しているのは、そういう人との会話のなかで、「あ!、そうだったのか」という経験を何度かした。この一瞬にしてひらめく「あ!、そうだったのか」という突発的な認識が肝心だ。たとえ後で考えると、「コロンブスの卵」のように、当たり前のことでも、それがきわめて貴重だった。文献を丹念に読み、データをきちんと処理しても、なかなか「あ!、そうだったのか」という認識は生まれない。いくらたくさんの情報を集めても、最後の鍵になるのは、こうしたたくさんの情報を結晶化させる核である。その核をどうやって手に入れるかは、王道がない。

 研究者の世界は、基本的には知的冒険の連続である。冒険だから、当たらないこともある。外れることもある。他人に嫌われることもある。軽蔑されることもある。しかししょせん人生は一度だけ。そうであれば、賭けるしかない。
 それから、これからの世代は、ぜひともIT技術に強くなってもらいたい。文系だから自分には関係ないなどと、ゆめゆめ考えないでほしい。といってもITスキルを身につけろといっているのではない。印刷術が大学の存在基盤を揺るがしたように、ITはもっと大きなインパクトを与える可能性がある。これからの大学は、このIT技術の深刻なインパクトを受けることになる。若い世代は、これからそうした大きな地殻変動の時代を生きてゆくことになる。端的にいえば、20歳代でかじった専門で、一生涯飯が食える時代は終わったと考えるべきである。もしかりに、幸運にも大学のポストが得られても、そのポストが一生涯保障されることはなくなるだろう。
万が一の場合に備えるには、どうしたらよいのか。それは専門に閉じこもるのではなく、専門をベースにして、自分をどれだけ豊かにできるかを考えることである。自分のフレクシビリティを練り上げることである。

 新しい情報が次々と氾濫する現在、よく観察していると、安易に新しい情報に乗っていく人と、ますます研ぎ澄ました考え方を作っている人と、2種類に分かれる。変化はしっかり受け止め、しかし変化に流されず。矛盾しているようだが、それが本当のところだと思う。そのためには「物凄い人」の話に、じっくり耳を傾けるのがベストである。丹念に探せば現在では、直接話を聞ける機会はいろいろある。できるだけ、実物の本人と直接対面しながら話を聞いたほうがよい。テレビでは、そういう迫力が伝わってこない。いくらIT時代になったといっても、人間は究極のところではアナログ動物である。

< 完 >