清水畏三(しみずいぞう) 先生

【第1回】  生い立ち:初中等学校時代    

【第2回】  旧制高等学校時代      
 
【第3回】  旧制大学・新聞記者時代

【第4回】  辛い学生募集体験から… 

【第5回】  高等教育担当ジャーナリスト    

【第6回】  若い高等教育研究者への期待    
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【第1回】 生い立ち:初中等学校時代

 私は昭和2年1月=北京で生まれた。小学校時代は、京都男子師範学校付属小学校→北京日本人小学校→旅順師範学校付属小学校→北京日本人小学校…という遍歴コースである。
 
 最も印象に残っているのは、わずか1年足らずの在学期間だったが、やはり京都男子師範付属である。選抜入試、親が大喜びしたからだ。入学者は2年生に進級するとき、6年間在学・卒業してから中学受験する生徒は<第1教室>に、5年間在学・飛び級で中学受験する生徒は<第2教室>に、それぞれ分類された。校舎も別々、<第2教室>はかなり離れた師範学校の敷地内に所在していたから、式典の日、<第2教室>の生徒らが、小学校講堂まで隊列を組んで堂々やってきた。

 母親が死亡。北京日本人小学校に転校、2年生に進級した。各学年1クラス、1クラス20名足らずであった。 5年生当時の昭和12月7月7日=芦溝橋事件が突発した。旅順に避難、旅順師範学校付属小学校に転校した。京都師範付属とは全く異なり、非選抜制の普通小学校であった。同年12月=日本軍が南京を攻略した。間もなく治安が回復した北京に戻った。

 昭和14年4月=新設された北京日本中学校に入学した。校舎は旧中国軍兵舎、自転車通学する途中、北京大学本部前を通過した。<紅楼>と称する由緒ある立派な建物、すでに日本軍憲兵隊司令部に変身していた。

 入学当時、級長に任命されたが、軍国少年ではなかった。2年生当時、貯金をはたいてヘルマン・ヘッセ全集を買い求めた。ヘッセには著書「世界の文学をどう読むか」がある。ドイツのレクラム文庫がそれを参考にしたのち、岩波文庫がレクラム文庫を参考にした。私は文学の世界にのめり込んだ。中学在学中、岩波文庫の外国文学に関する限り、知らない本は皆無なみではなかったか。
  
 戦時中、軍事教練が厳しい。野外演習や実弾射撃訓練も。3年生当時の昭和16年12月8日=太平洋戦争が突発、直ちに高等女学校警備班に選抜された。登校免除され、女学校の校門前、剣付き鉄砲で歩哨、校庭を定時巡視した。

 4年生当時、修学旅行で済南、南京、蘇州、上海、青島などを一巡した。上海は素晴らしい国際都市、有名デパートで値段を聞いたら、北京語が全く通じない。やむなく英語で聞いたら、ペラペラ返事、語尾しか分からない。以後1年間、気晴らし用以外の読書を停止、せっせと英単語を詰め込んだ。
   
【第2回】 旧制高等学校時代

 昭和19年4月=旧制旅順高等学校文科乙類に入学した。乙類とは、ドイツ語クラスを意味する。同年7月=サイパンが玉砕、東条内閣が退陣した。冬休み、北京に帰省すると、すでに敗戦予知の帰国ラッシュが進行していた。

 昭和20年8月15日=大連で天皇陛下の玉音放送を聴いた。それに先立つ数日前、友人の中国人から敗戦情報を聞いたから、当日の放送内容を予め承知していた。翌朝から敗戦とは如何なるものか、身に浸みて体験した。

 大連の銀座相当街で、ロシア軍将兵相手、ウイスキーやら腕時計を立ち売りした。少々ロシア語をかじっていたし、文乙のドイツ語が有効であった。信用されたからである。もうけたが、悪いロシア兵に後ろから鈍器で後頭部を殴られ、委託されていた高級時計を全て略奪されたこともある。 

 日本人は汽車に乗ることを禁止されていたが、北京に戻るつもり、台湾人に化けて瀋陽まで脱出した。医科大学の兄を捜すと、幸い無事、聞けば…、ドサクサ開業、ロシア軍兵士相手の性病治療をやっていたが、今では国民党の中国人将校を相手にしているという。そこで中国語ができない兄を手伝うことにした。早速、往診に同行すると、患者は性病を移された日本人女性、そばにいる冷たい表情の中国人将校から、「日本人生娘がいないか。世話してくれ」と頼まれた。

 昭和21年5月半ばから、瀋陽地区の日本人が引き揚げ帰国を開始した。私は中国語ができる要員として、直ちに葫蘆島まで現金輸送する任務を頼まれた。銀行が閉鎖、送金できないからである。満鉄の管理職2名が、それぞれ特大リュックサックに100円札を一杯詰め込み、私と共に普通列車で隠密輸送することになった。護衛なし、乗客は全て中国人、長時間、非常に緊張した。

 葫蘆島では国民党軍司令官付きに転属され、日中は引き揚げ者の荷物を検査する高級将校の付け人になった。非常に広い検査場、多い日は次から次へ1万人が入場、通過する。私が非常に感動させられたのは、海上輸送を担当しているアメリカ軍の隊長が、ジープで検査場に乗り入れ、汚い日本人婆さんらを桟橋まで300メートルばかり、ピストン輸送してやる姿であった。同胞愛なしの敗戦後日本人とは、品性が違う。  

 ここでは詳述できないが、もしアメリカ軍が葫蘆島に駐在していなかったら、引き揚げ業務がどれほど混乱したか。その実態を証言できるのは、今や私だけであろう。以来、私のアメリカ人観には、この体験が大きく影響している。  

 昭和46年10月=瀋陽地区からの引き揚げが完了、約100万人が帰国したことになる。私も帰国を決意、なにはともあれ廣島の原爆爆心地を見学するため、宇品を母港にしている唯一の引き揚げ船である改造空母・熊野を選んだ。船中、優遇された。宇品で停泊中、急ぎ市電で爆心地まで往復した。
   
【第3回】 旧制大学・新聞記者時代

 帰国後間もなく旧制第一高等学校文科甲類に編入した。当時は戦後混乱時代、全寮制の寮内では、左翼の連中(のち共産党のトップ指導者になった不破哲三も)らが張り切っていた。なにしろゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実が卒業生、戦後共産党指導者になった志賀義雄や伊藤律らも卒業生、度々アジ演説にやってきた。私はソビエト研究会に所属、ロシア語をやっていたが、“ニヒリスト病”とも言うべきか、人生目的を見失っていた。暗い霧の中を彷徨っていた。

 昭和24年4月=旧制東京大学文学部英文科に入学した。しかしその直後、幸い人生転機が到来した。「英文学序説」と題する平井正穂助教授の初講義に出席したとき、正に電気に触れたようなショックを受けた。摩訶不思議である。以後、私は前向きコースを歩み出した。なるだけ東大のメイン図書館で、閉館10時まで過ごすことにした。暖房なしの冬も。

 旧制東大が新制東大に転換した。久し振り一高の学寮を訪ねたら、最後の旧制一高生らが、年下の新制東大生らと同居している。驚いたことには、新制東大生がズボンにアイロン掛けしている。旧制高校時代の終焉を実感した。

 英文科に2年間在学したのち、中国文学科に転科、さらに2年間在学した。折柄、朝鮮戦争が進行中、新聞記者を目指したからである。東大の新聞研究所を受験、合格した。

 先年、廣島大学の総合学部にモデルとして紹介したが、英国の某大学が随分以前から、文理両分野にもまたがる多種多様の正副両専攻制度を全学生に適用している。ハーバード大学も最近、カリキュラムを大幅改革、初めて副専攻制度を導入した。私も自分自身の転科体験に基づき、正副両専攻制(学生の選択如何により、主専攻だけでも可)に大賛成である。幅広い教養教育にもなり得るし、学生不足学科の救済にも繋がる。

 卒業前の昭和28年1月から、財団法人共同通信社に勤務した。朝鮮戦争が最終段階の激戦を展開中、英語のみならず、中国語もできる外信記者が求められたからである。昭和34年から4年間、ニューデリー支局長を務めた。その間、ネパールにおける日本登山隊のヒマラヤ初遭難を救援かつ取材したり、高度6千メートルのアッサム・ヒマラヤにおけるインド・中国両軍間の武力衝突を取材中、幸い命拾いしたこともある。

 昭和41年8月18日=毛沢東が主導する「文化大革命」が突発した。翌19日早朝、国営新華社通信が共産党の新首脳部序列を打電してきた。私は一見、かねてから権力闘争を予測していたから、その線で午前10時過ぎ、至急報を国内外に飛ばした。しかしその後の日本においては、文革評価をめぐり、肯定論が有力化した。翌年夏、私は中国との完全縁切りを決意、辞表を提出した。
   
【第4回】 辛い学生募集体験から…

  昭和43年1月から、桜美林学園に転職した。創立者であり学長でもある父親が老齢化、新設の大学を軌道に乗せる経営努力が必要であった。以後32年間、文学部教授、大学院教授(比較高等教育)、学園長、理事長など歴任、その間、文部省の各種委員(大学設置審議会、中央教育審議会、生涯学習教育審議会、大学入試センター運営委員会など)をも務めた。

 転職後の数年間、専ら学生募集に従事、苦労した。当時はまだ文部省の私学助成金が皆無、従って弱小私立大学は極貧状態、とても定員数だけの入学者数では経営できない。受験料や入学金(納入後、入学放棄しても返済しない)、入学時寄付金などが重要財源であるから、受験者数が多いか少ないか、要するに入試難易度が経常収入に直結する。

 いささか体験談を述べるなら…、東京は新宿で開かれた進学相談会で、朝から夕方まで坐っていても、受験生がだれひとり来てくれない。東海大学の担当者が慰めてくれた。創立当初、やはり同じような体験をしたという。やはり高校をひとつひとつ行商PRしなければならない。会津地方の田舎町では、腰までの積雪、タクシーなんか利用できない。長野地方の田舎高校では、寒い廊下で随分待たされた。哀れな屈辱体験である。

 しかしそれでも、企業の募集担当者よりは有利であった。彼らは高校で就職希望者の名前と住所を聞き出し、自宅まで赴き勧誘しなければならない。学生募集が楽になったのは、女子進学率が大幅に伸びてからである。

 ある日、路上で学習院大学の教務部長に出会った。皇太子や秋篠宮を世話したフランス文学の教授である。「県立青森高校で同志社大学と鉢合わせした」という。「学習院がそこまでやる必要がありますかね」といったら、「まだ知名度が低いですから…」との返答。青森縣には“御三家”といわれる県立高校(青森、弘前、八戸)がある。そのレベルの高校からは、まだ受験生が来てくれない…という意味である。

 昭和45年、初めてハーバード大学を訪問、入試事務部の部長に面会した。驚いたことには、部員10名が、広大な全国各地を飛び回り、年間延べ1千余の高校を訪ねるという。なぜ名門大学がそれほどしなければならないか。部長にいわせると、「もし我々が募集旅行を止めたなら、まずスポーツの主将挌選手、指導者的人材、優れた学内新聞編集者などを獲得できない。地理的にも入学者が片寄ることになる」。“募集”というより、むしろ“スカウト”である。
   
【第5回】 高等教育担当ジャーナリスト

 昭和45年秋、私学研修福祉会から、アメリカの高等教育を3ヶ月間視察できる助成金をもらった。当時の日本は外貨不足の貧乏国、海外渡航が厳しく制約されていた。私は日本銀行から割り当てられた外貨額だけで順法旅行したから、トイレやシャワーが共用の汚い安宿にしか泊まれなかった。しかし極めて精力的に、あれこれ見聞できた。

 帰国後、新聞記者的本能を取り戻した。アメリカの新聞界においては、高等教育専門のベテラン記者が活躍していることを知ったからでもある。そこでハーバード流入試の在り方を、自ら頭を下げて「週刊朝日」に売り込んだ。かなりの反響、時事通信社の「内外教育」から頼まれ、もっと詳しい内容を連載寄稿した。NHKから取材された。

 昭和53年=ハーバードがヘンリー・ロソフスキー学部長の主導で、一般教育カリキュラムを大幅改革した。今度は「諸君」や「朝日ジャーナル」から頼まれ寄稿した。その翌年、「一般教育学会」の創立大会で講演、もっと幅広い観点から、ハーバード流改革を論じた。昭和61年=神戸大学主催のシンポジウムなどで、ロソフスキーから何回か取材できた。

 以来、いわば“ハーバード・ウオッチャー”になった。何回かハーバードを訪れた。一昨年、非売著書《列伝風:ハーバードの学長さんたち:成功者と失敗者》を自費印刷した。その後、Summers学長がカレッジ教授団と対立、辞任を余儀なくされ、ハーバード史上、初めての女性学長が登場した。先日、その騒動経緯や背後事情など執筆、私のウオッチイング業を終結した。

 とはいえ、名門ハーバードだけに関心を寄せていたわけではない。あえて本音を言うなら、アメリカ流高等教育の重要特色である各種各様の革新的大学について、それを推進した学長らの意気に共感しながら書きたかった。しかし日本の高等教育にとっては、全くよそ事である。労力の無駄になるから止めた。資料やメモを全て処分した。

 私はアメリカ独特のコミュニティ」・カレッジ(公立短大)を、非常に高く評価している。視察団の団長を務めたり、全米の公私立短大協会に加入したりした。日本は今や大学院大学だらけ、短期高等教育が挫折している。今後、マス高等教育時代にどう対応するつもりか。(但し、私はアメリカにはない日本独特の高等専門学校制度を高く評価する)。

 やはり特筆すべきは、幸い廣島大学のお陰で、クラーク・カー、アーネスト・ボイヤー、マーチン・トロー、アーサー・レバインらと直接対話できたことである。当時のアメリカでは、高等教育に関する調査・研究・出版が歴史的花盛り、彼らはその立役者であった。

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ハーバードの文書館にて
(筆者と館員)
額は「1650年チャーター」
(設立認可特許状)

 

 

 

【第6回】 若い高等教育研究者への期待

 私は学者ではない。単なる改革志向のジャーナリストに過ぎない。従ってご注文の「若い高等教育研究者への期待」を、先輩面して書く資格なし。やむなく、以下のアメリカ事情で代用させて頂く。

 そもそも高等教育研究センターが、一体如何なる時代的状況下で設立されたか。明らかにエリ―ト高等教育が、マス高等教育に移行した時期と重なる。アメリカの場合、カリフォルニア大学(バークレー)が、1956年=アメリカにおける最初の高等教育学センター(The Center for Studies in Higher Education:CSHE)を設立した。(カリフォルニア州が1960年、3種別のセクターに基づく高等教育計画を施行、公立短大セクターを大々的に拡大した。)その翌年、ミシガン大学(アナーバー)の教育学部(SOE:学士、修士課程)が、学部内に高等・中等後教育学センター(The Center for the Study of Higher and Postsecondary Education:CSHPE)を設立した。

 では現在、一体如何なる役割を担当しているのか。バークレーの場合は、どうやら研究本位らしい。ミシガンの場合は、CSHPEが修士・博士の両課程で高等教育分野の各種人材を大量養成している。ハーバードの場合は、教育専門大学院(1920年設立)が博士課程として、高等教育分野の人材を養成しながら、いわば現役大学幹部(正副学長、学部長、学科長など)対象の研修会を実施している。(その参加者数が過去35年有余で計7,500人。)

 しかしその修士課程にせよ、博士(PhDではない教育学博士)課程にせよ、それは学者養成用ではない管理職養成用と見てよい。私はハーバードで教育学博士論文を見せてもらった際、提出者(私立短大の学長)に肩書きを与えるためと判定した。(アメリカでは、学術大学院から分離している専門大学院(professional school)が発展しているからであろう。)

 アメリカは終身雇用社会ではない。給与は年功序列ではない。大学の場合、教員管理職にせよ、職員管理職にせよ、学問分野別や職種分野別の専門管理職として、流動的に転職する。驚くべきことは、そのような各種専門管理職が、極めて多数の職種に細分化されており、そのそれぞれの給与相場(公私立大学が同一労働市場)が公表されていることである。だから専門管理職を養成、資格を授与する機関が不可欠になるわけであろう。

〔注:〕細分化されている給与相場は、①博士課程併設大学、②修士課程併設大学、③学士大学、④2年制大学別である。 その①②③④別で、経営管理職(正副学長など)なら6種、上級専門管理職(教員・職員:例えば学部長、経理や施設の部長) なら10分野別の271種…という給与相場が成立しているわけである。

 日本の場合はどうか。天野郁夫先生が国立大学の法人化について、「旧秩序=<統制と庇護>から新秩序=<競争と市場>への移行」と解説、さらに「日本の大学現状は、今なお<専門家経営>ではない<素人経営>(素人教員が中心、職員も同様)である」と言われる。では今後、一体どこで専門家を養成するのか。

 随分前、ミシガン大学で高等教育センターの所長に面会した。帰り際、「次はどこに行くか」と聞かれ、「オバリン大学に行くつもり」と答えたら、「私も近くオバリンに行く」とのこと。聞けば…、「学長が教授団と対立、もめている。理事会から頼まれ、両者の言い分を聴かなければならない」。どうやら高等教育センターには、コンサルタント業務も含まれているらしい。日本の大学も同様、学内のもめ事が多い。今後は経営多難時代でもある。国立大学の高等教育センターなら、信頼され得るコンサルタントや調停者なり得るではないか。

< 完 >