関 正夫(せき まさお)  先生

【第1回】 生い立ち ― 大学入学まで

【第2回】 「高等教育」との出会い ― 九州大学教養部・理学部・大学院時代 
 
【第3回】  これまでの研究生活 ― 就職後~退官まで (1)原子核物理学研究の時代

【第4回】 (2)大学研究への転換期

【第5回】 (3)研究センターの専任研究員時代

【第6回】 (4)センターの新しい変化―国際セミナーの活発化
  
【第7回】 (5)横尾流の国際交流活動について

【第8回】 (6)故丸山益輝先生の葬儀の概要と先生のプロフィール

【第9回】 (7)センターの事務部門について

【第10回】 (8)センターの情報資料室について

【第11回】 (9)大学教育研究センター長時代 ― 退官までの時期 

【第12回】  若い高等教育研究者への期待
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【第1回】 生い立ち ― 大学入学まで

 私は、満州事変勃発の翌(1932)年の秋、中国山東省青島市の鐘紡の社宅で誕生した。父も母も九州片田舎の農家の出身であった。明治生まれの父母は高等小学校卒であり、親戚の者たちの中にも高等教育経験者はおろか旧制中学校教育を受けた者はほとんどいない。
 
 数年後、父の転勤に伴って、わが家は河北省天津市に移転した。終戦後、帰国するまでの約10年間は、この都市で過ごした。後年には、マンション風の住宅で、比較的裕福な生活ができた。それは抗日活動の盛んな大陸内部で生命の危険を冒して「綿花の買付」という営業活動を行っていた父の努力への報酬であった。
 
 私は、小学校低学年の頃、すでに明確な将来の目標・職業像をもっていた。親戚の者に聞かれると「将来私は医者になる。そのため帝大に行きたい」と答えていたという。
 
 長男の私が「医者」という職業につくことは母の切なる願いであった。彼女は、難病に冒された母親を長年の介護も空しく失い、身近に信頼できる医者の必要性を痛感していたからである。また、難病に挑戦できる医者になるためには、郷里近くの久留米の医学専門学校ではなく、福岡の帝大医学部に進学すべきだというのが母の想いであった。私は子供心に、母の期待を受けとめて将来の目標を描いていたのである。このような目標・職業像は、父母が郷里の農業を断念し中国の日本企業の会社員・家庭として生きる道を選択したことによってはじめて現実的に可能となったのであろう。私には弟が2人いるが、両親は彼等には別の人生を期待していた。
 
 敗戦の翌(1946)年、わが一家は手荷物一つで日本に帰国した。私は郷里の旧制中学校に転入できた。当初、父母は実家の農業を手伝ったが、半年後に裸一貫で独立した。父は未経験の「鮮魚の行商」をはじめた。母も「中古衣類の行商」で家計を助けた。私の中学校生活は辛うじて続けられたが、将来医者になることは諦めざるをえなかった。医者になるまでの長期の修学に必要な学費をまかなうことは、わが家では不可能だったからである。

 教育制度の改革により、1948年に旧制中学は新制高校と改称された。高校低学年の頃の私は、医者になる夢を棄てきれず、生物部の活動に参加した。実際、生物部員の中には大学医学部に進学した者は少なくなかった。当時、田園地帯のわが旧制中学には都会から疎開してきた若い大学教員の姿が散見された(例えば、後に信州大学長に就任された西条舒正先生は化学を担当)。高校1~2年の時、東京の大学で物理学教員をしていた角野先生の特別授業を数名の友人達と受け、大学教養課程レベルの数学と物理学を教えていただいた。ニュートン力学の素晴らしさに感嘆した。この授業の中で、日本人初のノーベル物理学賞受賞者・湯川秀樹教授の研究業績等についても説明していただいた。一方、湯川博士と同時に表彰された「長崎の鐘」でも有名な永井隆博士(放射線医学)の映画を見る機会にも恵まれた。私の将来の目標は医者から原子物理学者へと変化していったのである。

 しかし最初に九州大学の入学試験を受けたときには、家庭の事情を配慮し、卒業後実務に就ける工学部を選択した。だが、大学受験に失敗した。私は予備校にも行かず、親類の家の留守番をしながら、高校での未履修科目、化学と日本史を独学で勉強した。理科は生物学をやめて、物理学と化学を選択。社会科は世界史と日本史を選択して受験に臨んだ。1953年春、幸い九州大学の理学部物理学科に合格することができた。貴重な浪人時代を経験させ、物理学者を目指すことを了解してくれた両親には感謝の言葉もないほどである。
    
【第2回】 「高等教育」との出会い ― 九州大学教養部・理学部・大学院時代

 私は、教養部時代から大学院時代にかけて、住み込みの家庭教師をした。食費は節約できるし学費は奨学金と謝金等でまかなった。まとまった金額が必要な授業料等だけは家からの支援に甘えた。友人の中にはアルバイトで両親に仕送りもする猛者的学生も存在した。1950年代には国立大学には貧しい者が少なくなかった。
 
 本章のテーマに関しては、制度論的には大学教養部時代から語るべきだが、内容論的には高校1-2年次に受けた角野先生の数学と力学の特別授業は、教養部の授業と同質であった。一つの力学法則から天体の運動も地上物体の落下運動も説明できるニュートン力学の体系性や理論の美しさは、高校の教科書では到底味わうことができないものであった。

 教養部時代、高校教育にない科目、哲学・西洋文学史・法学・経済学等を履修したが、多くは学説の紹介であり、興味は半減した。にもかかわらず、これらの科目を受講していたことが後年、大学問題に接近する際に大いに役に立った。

 物理学科目である古典物理学の授業は、高校時代の特別授業と大同小異なため、感激は薄かった。だが、本屋で入手した『理論物理学講座』全10巻(弘文堂、1950)は、学部生から大学院生を対象とした「量子論」「量子力学」「原子物理学」等の解説書であり、興味深く読んだ。教養部2年目の夏、理学部で理論物理学の国際セミナーが開催された。好奇心に駆られ、私は友人と参加した。教養部学生では理解は無理と思えたが、上記の『講座』のお陰で「現代物理学」の面白さを多少は認識できた。

 2年後理学部に進学して、一番面食らったのは、数学基礎論の講義であった。端的にいえば、1+1=2はどうして成立するのか、といった、凡人にとって当然と思われ、疑ったこともない事柄の根拠を問う講義であった。受講者の半数が不合格となる程、多くの学生は戸惑い、高校と理学部の数学の本質的な差異に驚いたのである。

 専門科目の物性理論の講義は教授の説明も巧みでよく理解できた。物理数学の講義は理解できず、教授が推奨する文献を友人達と輪講することで何とか理解できた。一般的に講義の教育評価をすれば、物理数学の評価は物性理論の評価には到底及ばない。だが、学生にとって実力が付いたのは物理数学の方であった。教育評価の困難性を示す事例である。

 九州大学の物理学科の場合、卒業論文がなく、代表的文献の輪講が必修である。論文というのは学術的研究論文を想定しており、学部卒業時に作成するのは能力的に不可能。学部時代には基礎的な代表的文献を理解することが卒論より重要であるという考え方である。大学教育論の観点からいえば、これは研究過程のもつ教育的効果の重要性を軽視した見方である。卒業研究を重視する工学部の方が教育重視といえよう。今日では、卒業研究も基礎的文献の輪講も双方とも理工学部の教育にとっては不可欠なのである。

 最終学年になって野中到教授から待望の原子核物理学を興味深く学んだ。翌年、野中教授は東京大学原子核研究所の副所長に転任した。大学院修士課程に進学した私は、後任の森田右教授の原子核実験研究室に所属した。大学院では数種類の講義科目の受講時間を除く時間は、朝から晩まで、研究助手や技師と一緒に、加速装置の修理と点検に追われる毎日であった。野中教授の講義を聴いた喜びとの落差は大きかった。物理学会に入会し向学心に燃える大学院学生に対して、学問的感性を摩滅させるような肉代労働に類する作業を年中強要する原子核物理学実験講座から脱出する機会を私は待つことにしたのである。
    
【第3回】 これまでの研究生活 ― 就職後~退官まで (1) 原子核物理学研究の時代

 修士課程の1年目が終わる頃、工学部に応用原子核物理学講座が開設された。将来原子工学科を設立するための基礎講座である。主任教授として京都大学の園田正明教授が、助教授には京都の原子核研究施設で活動していた片瀬彬氏が就任した。研究助手2名は全国公募である。私は直接、園田教授に公募書類を提出した。研究業績が皆無の私は奇跡的に採用された。もう一人は大学院の私の先輩で、企業で実験装置開発に従事していた経験豊富な研究者であった。1958年から8年間、私は工学部で研究助手として勤めることになる。

 工学部の園田研究室は加速装置などの設計製作からはじまった。出発期の研究機関に身をおくことは、未経験の若造にとっても、研究者として成長する得難い経験となる。加速装置は多種類の部品から構成される。新米の私も重要な部品の設計・製作の責任者に指名された。国内外の関連文献調査・分析、担当部品の設計原案作成、各事項に関する研究室での討論を経て設計案を確定し、製作依頼する企業を選定し発注する。納品された全部品の機能テストを行い、加速装置の組立てということになる。責任は重く失敗も少なくないが、完成したときの喜びは、何にも代え難い。さらに各装置・部品の設計等に関する事項を数編の学術論文としてまとめ、学会誌等に掲載されたときの喜びも一塩であった。

 園田研究室の研究助手は、研究室での原子核反応実験のほかに、全国共同利用の東京大学原子核研究所(略称・東大核研)における共同実験を計画・実施したり、他大学のチームとの共同実験に参加するなど、開放された研究空間のなかで研究活動をすることが認められていた。私の博士論文に関する実験は東大核研で実施したが、園田・片瀬両先生は、数日間にわたる補助者的作業や徹夜実験にもつきあって下さった。頭の下がる思いであった。園田研究室時代の経験は後の大学問題の改革案策定などに大いに参考になった。

 1968-9年の大学紛争期に大学の講座の閉鎖性や大学教授の権力性が問題となったが、園田研究室や全国の原子核物理学研究者の世界は、1960年代には「講座」の壁のみならず、「大学」の壁をも越える、開かれた研究室が可能な民主的社会を形成していたのである。

 東大核研の共同実験が機縁で、笠典生教授から誘われて、1966年広島大学工学部に転任した。原子核物理学概論等の講義を担当することになった。九州時代は、ウラニュウム等の重い原子核の性質を解明する研究であったが、広島では核子-核子の相互作用に関する実験的研究に重点をおいた。だが、広島大学工学部では講座の枠を超えて輪講や研究討論を開催することが困難な状況があった。若手の教員や大学院学生は、教授が帰路につき、やっと開放されてから、自由な研究討論をはじめる有様であった。非学問的な教授たちの権力的体質・対応には、若さゆえか、私も我慢するのに苦労した。

 2年後には、大学紛争が全国に波及し始めた。広島大学では「大学を考える会」が発足した。一方、工学部では若手教員を中心に「大学を考える工学部の会」を発足させ、大学問題の検討に着手した。同会の出発を記念して公開の研究集会を開催した。私も世話人の一人として「大学の自治とは何か」について調査結果をふまえて報告した。実は「大学の自治の歴史と現状」を調査研究する過程で一つの発見があった。かつて無味乾燥だと感じていた教養部時代の一般教育(人文・社会科学系科目)が、理工系の私にとって重要かつ有用であると、はじめて実感できたのであった。
   
【第4回】 (2) 大学研究への転換期

 大学紛争期、広島大学では全学的な大学改革委員会が設置され、各学部から選出される委員で構成された。画期的なことに、委員資格が教授だけでなく助手にまで拡大された。ここには、大学問題としての「教授会の閉鎖性」の克服(民主化)の要請が反映していた。

 工学部では、就任2年目の新米教師の私が、多くの予想に反して、委員に選出された。教育学部は大学史家の横尾壮英氏を選出。大学紛争で最も混乱していた教養部は、大学改革試案の起草者である伊藤虎丸氏(中国文学)を、医学部は後に学長に選出される飯島宗一氏(病理学)を選出した。助手を選出した学部等(法学部と理論物理学研究所)も存在した。その他の学部も大学問題に関心をもつ委員を選んだ。専門委員として教養部の山崎真秀氏(教育法学)が指名された。

 全学の改革委員会における論議の過程で、横尾先生から「大学を対象とする研究」の重要性を学んだ。山崎氏からは日本の大学自治の問題性を、伊藤氏からは一般教育改革の必要性を学んだ。改革委員会は討議の結果を「広島大学改革への提言(仮説0)」と「当面の改革に関する建議―第1次」として提示し全学討議に臨んだ。同改革委員会の活動は3-4年間継続したが、私は1年で任期を終えた。実は、上記の「建議」のなかで提言されていた大学問題調査室の創設が飯島学長体制の下で実現し、山崎氏とともに私は調査室のメンバーに選ばれたのである。改革委員会で私は資料担当を兼任し、工学部への本務を顧みないほど大学改革の資料調査に没頭していた。恐らく、私の大学改革問題への「執着心」が調査室の指導者であった横尾先生の眼にとまったのかもしれない。わが国の大学ではじめて創設された大学研究の場としての大学問題調査室の調査員に選ばれたことは、理工系出身の私にとって光栄なことである。このことが私の大学研究への転向の一つの契機となったことは疑いないところである。

 2年後の1972年、大学教育研究センター(以下、研究センターと略)が正式に発足した。学内措置の大学問題調査室は「国立学校設置法施行規則」による国立大学の「学内共同教育研究施設」に昇格し、国家から認定された大学研究の機関となったのである。教官・事務官各1名の定員がついた。研究センター関係者の期待を担って、最初の専任助教授には国会図書館調査課の喜多村和之氏が就任した。彼は修士課程1年次に『思想』(岩波書店)に論文「徳は教えられるか」を発表したギリシャ哲学専攻の俊英である。しかも『コロンビア大学の危機』の翻訳の際には家財を処分し旅費等を工面し現地調査を行ったほどの熱血漢である。また彼がアメリカ高等教育研究に造詣が深いことも衆目の一致するところであった。その翌年、研究センターに専任教授ポストが新設され、人事は難航したのか、奇しくも理工系出身の私が選ばれた。1973年秋のことである。人文学・社会科学の専門的素養に乏しく、大学研究の蓄積が皆無の私にとって晴天の霹靂であった。再び、原子核物理学の道に帰ることは許されないのだと考えると感慨ひとしおであった。また、大学受験時代に両親に約束した物理学研究者の道を断念することは複雑な思いであった。さらに不惑の年になって研究領域の大転換をしたことは、多くの大学関係者からの「軽率の謗り」を免れないことであり、厳しい大学研究生活への出発であることを改めて覚悟した。

<追記> 上記の大学問題調査室及び大学教育研究センターの設立経緯に関しては『広島大学25年史―部局史』(1977)第14編第1章及び『大学教育研究センター20年の歩み』(1992)に掲載の飯島宗一先生の論稿などを参照のこと。

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1971年3月 大学問題調査室一同

山崎眞秀,有本章両氏の送別会

前川力調査室長の私邸にて

〔前列:右から二番目〕 

 

【第5回】 (3) 研究センターの専任研究員時代 

 本センターの専任教授に選ばれたとはいえ、学部長等経験者の方々がセンター長の重職を交互に担って下さったので、私は共同研究プロジェクトと個人研究に専念することができた。後に専任教授・助教授定員が増加したこともあって、私は専任教授というよりも専任研究員という意識で研究活動に関与できた。大学研究に疎い理工系出身の私にとっては幸いであった。本センターの専任教官一同のご理解・協力には感謝の念で一杯である。
 
 大学史家の横尾先生の助言もあって、私は、理工系出身という特色を生かした研究テーマを選択することにした。当初、企画・実施したのは「理科系学部における基礎教育及び一般教育の内容・方法に関する調査研究(通称、理科系プロジェクト)」である。これは数学・物理学・化学・生物学・地学・工学の6グループ、総勢約30名からなる共同研究であった。各グループのリーダー役には、理学部・工学部・教養部の学部長・教務委員長等経験者の教授たちに担当していただいた。理系分野で学部・学科の壁を越えて教育学的研究をすることは、全く新しい試みであった。かつての原子核物理学における共同研究の経験が役に立った。各グループのリーダーの協力と努力のお陰で、一応の研究成果が得られた。それ以上に意義があったのは、学部・学科を越えて、有力教授等の間で基礎教育等の問題をめぐる学問的検討が行われ、その成果を共有できたことである。当時『大学研究ノート』に集録された共同研究の成果は、幸いなことにかなり多くの有力大学からも問い合わせを受けた。しかし、現時点から見れば、最初の共同研究の成果は、研究の方法論上の問題もあり、学術的な評価に耐えうるものと言い難い。しかし大学研究者としての最初の研究プロジェクトであっただけに、私にとって忘れがたい経験であった。
 
 個別研究では、自己の体験から、理系学生の一般教育や理工系学部のカリキュラムに関する研究を中心にすすめた。大学改革委員会時代から愛読していた、海後宗臣・寺﨑昌男共著『大学教育』(東京大学出版会,1969)は非常に参考になった。センター出発期に寺﨑氏(当時、野間研究所研究員/現東大名誉教授)が、客員研究員として長期滞在された。氏から直接、大学史や大学教育論の基本的問題について学ぶ機会が得られた。

 研究の方法論の修得についていえば、歴史的方法に関しては、教育史家の論文・著作を参考にした。しかし歴史学の教育訓練の経験が皆無であるため、対象に対する歴史的考察の「まねごと」という程度であった。これは国際比較の方法の場合も同様である。社会学的方法に関しては、必要性・重要性は認識していたが、ディシプリンを修得していない私には、それを活用することは困難であった。さらに総合的なテーマに接近するにはこれ以外の研究方法(例えば文化人類学等)も必要だが、それらについては無知に等しい。

 理工系の私が、大学論・教育論等に接近するために加入した学・協会は、物理教育学会、大学史研究会、日本教育学会、民主教育協会、一般教育学会、日本工業教育協会、日本教育社会学会、研究技術計画学会などであるが、各領域の学問や方法は修得できなかった。

 この時代、大学研究者としての私が教えを受けた人々は少なくないが(注)、紙白の余裕もないため割愛させていただく。1979年7月、大学研究の恩師である横尾壮英教授が国立教育研究所図書館長に転任された。残念な思いをしたのは私だけではない。これ以降、センターには新しい変化が起こってくるのである。

(注) 拙著『日本の大学教育改革』(玉川大学出版部,1988)の「あとがき」参照。

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1979年7月 横尾センター長の送別会

左より、前川先生、横尾先生、内海先生

筆者は「開会の辞」を述べている。

 

 

【第6回】 (4)センターの新しい変化―国際セミナーの活発化

 横尾先生がセンター長を勤めていた1970年代には、1976年4月に開催した「第1回広島高等教育国際セミナー:未来の高等教育システムを求めて」が一回あるだけである。この国際セミナーも横尾先生の長期外国出張中に企画し先生の帰国直後に開催されたものだ。

 ところが、横尾先生が東京に転任された以降の1980年代には上記セミナーの続きである「第2回広島高等教育国際セミナー:1980年代の高等教育―新しい課題への挑戦」をはじめ、合計12回、年平均1,2回という頻度で国際セミナーを開催している。

 本センターの研究活動は、当初①共同研究プロジェクトの実施、②個人研究、③研究員集会の毎年開催、④国際交流活動であったが、1980年代に国際セミナー開催頻度が増大し、また国際的共同プロジェクトも増加したために、センターの研究活動全体が国際化に重点を移したという印象を内外の関係者からもたれるようになった。全国大学を代表して高等教育に関する国際セミナーを総括的に担当実施する本センターに対する文部省の評価は高まり、センターの条件整備にとってプラスに作用したことは間違いない。しかし横尾先生がしばしば心配していたように専任教員の高等教育研究の基礎的能力の形成にマイナスの影響はあったかもしれない。仮に、横尾先生がセンター長を続けていたならば、センターの国際化の動向はどのように変化していたのか、興味がもたれるところである。

 上記の「第1回広島高等教育国際セミナー」では、企画段階で横尾先生が不在であったため、私がセンター長代理として国際セミナー実行委員会副委員長役を務めた。飯島学長が同委員会委員長である。副委員長というのは事務局代表であり、国際セミナーの黒子役の代表である。本セミナーの内容等の企画は国際経験豊富な喜多村・馬越の両助教授が協力して取り組んだ。本センターを代表して横尾センター長が正式参加者に加わった。

 セミナーの正式参加者は約50名、内訳日本人参加者と外国人参加者は半々。外国人参加者は、国際教育開発協議会(ICED)の役員であり、C.Kerr氏(元カリフォルニア大学総長)、H.Leussink氏(元ドイツ連邦共和国教育科学大臣)、H.Janne氏(元ベルギー文化大臣)など高等教育の権威である。日本側の正式参加者は天城勲氏(文部省顧問)、木田宏氏(文部大臣代理)、岡本道雄氏(京都大学長)ほかセンターの研究員(新堀通也、中山茂、寺﨑昌男、小林哲也等の諸氏)である。ところが運悪く列車はゼネスト。広島空港が濃霧のため東京―広島便は欠航。内外の参加者約80名は羽田空港から福岡に飛び、福岡から広島まで、九州大学と広島大学が協力してバスで参加者全員を運び、深夜会議場の広島グランドホテルに無事到着した。円滑な移動ができたのは木田宏国際学術局長の指導性によるところが大きい。

 この間、黒子役の事務局員も大幅な変更が迫られ、それへの対応は大変であった。某大学関係者は広島大学関係者を東京に呼び、東京でセミナーを開催することを要求してきた。また羽田空港から福岡便と松山空港便の双方の功罪を検討し文部省の国際協力課と協議し基本方針を決めた。会場の不変更、輸送方法等に到るまで検討したのである。正式参加者がホテル到着後は、黒子達はセミナーの日程や内容の変更を調整する作業に追われた。黒子代表(私と鈴木喬庶務課長)は新プログラムの運行表の作成に追われ一睡もすることなく、セミナー開催の朝を迎えたのである。黒子役の重要性は東大核研における共同実験で経験したことである。論文に名前がでない研究者や技師達が共同実験の条件整備(加速装置や測定装置の補修・点検等)をしてくれるからこそ共同実験の成果は挙がるのである。私は、今後センターが開催する各国際セミナーでは黒子役に徹することを決意したのである。
   
【第7回】 (5)横尾流の国際交流活動について

 横尾センター長は、研究者が国際セミナーで忙殺されることには批判的であったが、本センターで奨励・実施した国際交流活動がある。それは彼自身の知的関心と若い研究者の高等教育研究に関する視野の拡大に関係する活動であった。横尾先生はヨーロッパの大学史の専門家であり、若い時代にヨーロッパに長期留学し各地の大学キャンパスを直接観察した経験を持っている。しかも彼は、日本の大学の将来像を検討するに際して、日本文化のルーツである東アジア文化圏の諸大学の現況や変化動向に強い知的関心を持っておられた。他方、日本の若い研究者は、日本の財政制度や補助金の性格を反映して、例えば、近代アジアの高等教育の歴史的研究をする場合に、文献研究に終始する傾向がある。海外大学訪問調査をしたくとも財政的に困難だからである。横尾先生は、文献研究至上主義に陥りやすい若い研究者の視野を拡大し視点を相対化する必要性を考えておられたのである。

 横尾先生が推奨・実施した国際交流活動は、韓国を例にとれば、韓国の高等教育の専門家をコーディネータとして韓国大学訪問調査計画表を立案してもらう。センター長または代理が訪問調査団長を務め、計画の立案に関与する。旅費は自己負担で適当な参加者(センター研究員に限定)を募集し、訪問調査団を組織する。適切な時期に訪問調査を実施する。その成果に関しては『コリーグ』や『大学研究ノート』に公表する。実際に、横尾センター長を団長とし、馬越助教授をコーディネータとする韓国大学視察団(団員:関、成定)が組織され、1977年3月末から4月上旬に訪問調査を実施し成果を公表した。

 横尾センター長の後継者は丸山益輝センター長(工学部教授)である。丸山先生を団長とし、大塚豊助手をコーディネータとする学術訪中団(副団長・関、団員:杉原、仲渡、山谷、川内/総勢7名)は、1979年12月下旬、10日間の日程で中国諸大学等の視察に出発した。中国大学視察の目的は、①基本データ(学生・教員数等)、②管理運営、③カリキュラム、④研究者養成、⑤入学者選抜等の情報収集及び大学関係者との国際交流であった。北京では北京大学、北京師範大学、清華大学、北京医学院の視察を行った。また長城、十三陵、故宮等を見学した。南京では到着直後成賢街小学校見学、翌朝(12月19日)南京大学視察の予定であった。迎賓楼で徐福基副校長と本センター長との挨拶・懇談を終えて見学予定の講義棟の玄関階段の登り口で、丸山先生は心筋梗塞で倒れた。杉原先生と救急医等の懸命な蘇生治療も空しく帰らぬ人になった(詳しくは『コリーグ』7号(1980)の拙稿参照)。私は副団長としてご遺族や中国側関係者と協議し現地で遺族の到着を待って火葬に付し多くの関係者の厚意・協力のもと葬儀を行った。数年後中国の諸大学を講演旅行したときに、北京師範大学と南京大学にはお礼の挨拶に出かけたことは言うまでもない。

 横尾センター長時代の1977年秋頃、フォード財団の高等教育研究助成プログラムに、コロンビア大学のH.Passin教授の紹介で、センターの「大学の国際化に関する総合研究」(代表:喜多村和之助教授)は助成金の交付申請を行い、幸い助成金が4-5年間にわたり交付された。総額は400万円位であった。毎年の使用計画の大枠を決める必要があるものの、海外渡航旅費などにも弾力的に使用できる補助金であった。センターの主要な共同研究プロジェクトでは国際比較の観点から海外大学の訪問調査を計画実施した。私の関与する理科系プロジェクトは、成定、大塚両助手の協力を得て、1979年3-4月にアメリカの理工系大学の訪問調査を実施した。その成果は、中国大学視察の成果とともに、(9)節に紹介する拙著の出版に生かされている。
   
【第8回】 (6)故丸山益輝先生の葬儀の概要と先生のプロフィール

  学術訪中団の丸山団長が訪問先の中国で急逝された際、遺体を何故日本に運んで葬儀を行わなかったのか、疑問に思うコリーグも少なくあるまい。また文革の余燼の残る社会主義中国で行われた丸山先生の葬儀の内容等に文化論の観点から関心を持つ人もいるだろう。今では知る人も少なくなった丸山センター長とはどのような人物であったのかについて紹介することも、副団長役の私の務めであろう。
 
  われわれ視察団は、中国教育部の招待で12月下旬に訪中したが、諸大学視察には、受入先の北京師範大学から外事弁公室副主任・陳忠文氏と外国教育研究所の蘇真先生が同行し、訪問大学との交渉役や専門的通訳として協力してくれた。丸山先生急死という大事件の場合、中国語に堪能な大塚助手だけでは荷が重い。その意味でも陳副主任と蘇真先生の存在は心強かった。先生の遺体は、治療に駆けつけた救急医の属する鼓楼病院の霊安室に安置し花を飾った。宿舎・南京飯店に帰り、団員に今後の視察計画の変更とご遺族・広島大学・文部省等への連絡の分担、葬儀等への協力を要請した。

  当初、先生の遺体を日本に運搬する方向で検討し、中国国内鉄道や日本航空、南京市衛生局、江蘇省関係機関と交渉した。社会主義国の中国では、伝統的な土葬を廃止し火葬に転換したという。遺体を国内の列車・航空機で運搬することはきわめて困難であることが判明した。上海まで行けば日本航空の便が利用できるが、南京-上海間の運搬は容易ではない。以上の事情をご遺族に伝えたところ、丸山夫人は「主人は、生前中国を愛しており、中国で死んでも悔いはないと申しておりました」と言って現地で火葬にすることを直ちに承認された。われわれはご遺族を早急に南京に迎えるための方策を広島大学事務局、センター等と協議した。ご遺族は夫人と長女夫妻、丸山研究室の柳澤助手、センターの馬越助教授の5人が2陣に分かれて上海空港に到着、仲渡教授が上海まで出迎えに行った。その夜夫人等は病院でご遺体に対面し宿舎で中国側要人等の弔問を受けた。翌22日早暁第2陣が到着。私は出迎えたあと弔辞原稿を準備した。早朝、遺族と団員等は鼓楼病院へ行きご遺体に礼拝。中国側参加者を出迎え、先生の告別式を行った。次に火葬場で火葬を行った。先日北京で懇談した教育部外事局の胡述智副局長と北京師範大学の任炎副校長は、夜行列車で葬儀に駆けつけてくれた。この後われわれは追悼会場に向かった。一連の葬儀は、中国教育部(カネ)と江蘇省革命委員会(ソフト)が取り仕切ったが、読経もなく宗教色の薄いものであった。追悼会では中国側の政府高官や諸大学副学長の弔辞の後、大学関係者等をはじめ、先日訪問した小学校生徒と宿泊したホテルの従業員等約200人の参加者が故丸山先生の霊に献花をした。現地で無事に葬儀を挙行できたのは招聘先の中国教育部や北京師範大学、訪問先の南京大学や江蘇省行政機関の関係者の厚意と協力、ご遺族の理解と団員等諸氏及び広島大学事務局・文部省・外務省・日本航空等の多大な協力によるものであった。故丸山先生の工学部・本センター共催の合同葬は12月27日に工学部で盛大に挙行された。

  最後に故丸山益輝先生の略歴を記しておこう。昭和18年東京工業大学卒。東北大学金属研究所教授、広島大学工学部教授、工学部長を経て、大学教育研究センター長に就任。センターの共同研究では技術教育班を主宰(拙著『日本の大学教育改革』「あとがき」参照)。金属材料学の権威で日本学術会議の会員。広島市平和文化センターの活動に貢献、広島市長が原爆の日に朗読する平和宣言の作成に関与、原水禁運動のアドバイザー役として活躍。歌人として数冊の歌集を出版。人間愛に溢れるスケールの大きな科学者であった(享年60歳)。
   
【第9回】 (7)センターの事務部門について

 若い研究者は関心がないかもしれないが、教育研究機関では事務部門の整備は不可欠である。だが、新設の学部やセンターで事務官の新規定員を確保することは1970年代においても極めて困難とされた。実際、1970-80年代に広島大学に設置されたセンター(学内共通教育研究施設)は多いが、新規の事務官定員を獲得したところはほとんどない。ところが、幸いなことに本センターは発足時と2年後の1974年に事務官各1名が定員化した。これは本センターの意義・役割の重要性を理解してくれた文部省と広島大学事務局関係者の協力・努力によるものである。

  センターの事務官等は附属図書館事務部門の傘下に入る。センターで事務官定員を必要とするのは事務部門と情報資料室である。事務官定員を両部門でどのように配分するのかはセンターの研究活動にも影響する重要課題である。以下には、本センターの事務部門の略史(72年-95年)と業務の概略を記すことにする。

  本センターの事務部門には庶務・人事・経理・用度等の機能が必要である。教務の機能はセンター大学院の主管事務を他学部事務部門に依存しているのでここでは考慮しない。センターの情報資料室は情報管理・情報サービス等の機能が必要である。センターの事務官定員2名体制は、センター発足2年目に実現し筆者が退官した1995年にも維持された。非常勤の事務補佐員は研究活動や予算の増減に応じて2~4名の範囲で雇用した。

  発足期、事務部門は事務官1名(木下氏)と事務補佐員1名(京極さん)。情報資料室の司書は事務補佐員1名(田尾さん)であった。1974年4月から事務部門は事務官2名(加世田・山田両氏)と事務補佐員1名に拡充。情報資料室司書は事務補佐員2名(木上・頼さん)で担当。1977年秋事務官(山田氏)が人事異動。同時期、上級国家公務員試験合格の資格をもつ木上さんは事務官に抜擢された。1977年秋には事務部門は事務官1名(加世田氏)と事務補佐員2名が担当。情報資料室司書は事務官1名(木上さん)と事務補佐員1名(江森さん)で担当した。その後1994年までの17年間、センター事務部門は原則として事務官1名と事務補佐員若干名の体制で対応してきた。この間、事務官には加世田・栗崎・末田・宗重・上宮・川野・梅田・桑原等の各氏が2~6年間、事務主任として膨大な職務を事務補佐員若干名の協力の下で担当しセンターの研究活動等に貢献してきた。この間事務補佐員として協力した人は多いが、3年以上の勤務者は八谷(5年半)・坂本(13年)・古屋(14年)さんの3人である。彼女達は実質的に専任職員に相当する活躍をしたのである。

  次にセンターの事務部門の業務の概略を記しておこう。庶務・人事に関していえば、管理委員会・運営委員会の開催に関する事務手続き(通知の発送・出席者の確認、議事録の作成・保管等)。専任教官・事務職員の出勤簿・出張記録等の作成・保管。研究会・研究員集会・国際セミナー等の案内作成・関係者への発送・出欠調査等の業務を担当・実施する。経理・用度に関しては、予算の伴う管理運営上の委員会(出席者の旅費)、研究集会・国際セミナー開催、文献資料の購入・刊行物の出版等の企画に関与し必要書類の作成・執行手続きを行う。教官等の研究活動に必要な予算書の作成・予算支出を行う。施設・設備(机・書棚・パソコン等)の維持・管理または購入・改修・保守に関する事務的業務を担当する。

  上に概観したように事務部門の諸業務はセンターの研究活動・サービス活動全般を支援する法制的・財政的行為である。専任教官の中に庶務担当者等を配置したが、それは研究活動等と事務的活動の両者を円滑に作動するための工夫的措置に他ならない。
 
【第10回】 (8)センターの情報資料室について

  センター創設(1972年)以来、情報資料室は下記の重点的領域の文献情報の収集活動を行ってきた。①国内外の大学・高等教育関係の重要文献。②国内外の主要大学の要覧類。③国内外の主要な大学の改革関係文書。④高等教育関係の新聞・雑誌記事等。
筆者が退官する前の1992年には、所蔵文献資料は、和書(大学史等を含む)1.3万冊、洋書(各国大学史を含む)約8千、和雑誌78種、洋雑誌72種、新聞(邦文)12点、新聞(欧文)3点。この他、学生便覧類(日本)約3.3千点、外国大学要覧約8千点、高等教育関係パンフレット類約8千点。高等教育関係新聞記事切り抜き約6万点に達している。
 
  情報資料室の文献資料収集活動は、センターの各種の研究活動の成果の死命を決するほどの重要性を有している。それのみならず、数百名に及ぶ内外のセンター研究員の高等教育研究に関する活動に貢献してきた。本センターの情報資料室は、端的にいえば、日本の高等教育研究にとって基盤的条件を支えてきたといっても過言ではない。

  センターの情報資料室が内外の高等教育研究者から高く評価される要因は、所蔵文献資料の質と量及び優秀な司書が存在したことにある。この件に関する功労者は国会図書館・専門員としての勤務経験を有する喜多村和之助教授である。彼の文献資料選定等及び司書育成における指導的役割は特筆に値する。次の功労者は横尾壮英センター長である。先生は教育学部卒の才媛(上級公務員試験合格者)木上尊子さんを司書として推薦してくれた。お陰で1973年に彼女を情報資料室に採用できたのである。彼女は本部事務局等に異動すれば好条件の事務系ポストを選択できたと思われるが、非常勤の事務補助員として4年間務めてくれた。前節で記したように事務官山田氏の人事異動の時期に、彼女は事務官に抜擢され、1981年3月まで8年間、喜多村教授の指導の下で情報資料室の情報管理・情報サービスの活動に尽力してくれた。さらに、木上さんが事務官に採用された時期に情報資料室司書・事務補佐員に採用されたのがドイツ文学専攻の江森早穂さんである。木上・江森のコンビは4年間続いた。この間に情報資料室の基礎が形成されたといえるだろう。

  ここで特筆すべきことは専任教授・助教授が教官研究費の約9割を共通運営費(文献購入費・出版経費・事務補佐員給与等)に使用すること、つまり効率的予算運用を認めてくれたことである。このことがセンター情報資料室の整備に大きく貢献したのである。

  1981年3月、木上事務官は全学の人事異動のテーブルに載った。その後、彼女は総合科学部や本部事務局等の教務や国際交流関係の部署の主任・係長として活躍している。木上さんの異動期に江森さんは資格試験に合格し事務官に採用された。情報資料室司書係の責任者は江森事務官となり、筆者の退官の前年1994年まで務めてくれた。この間、司書・事務補佐員として務めた人は多いが、3年以上の勤務者は東(3年)・稲田(8年)、平岡(6年)さんの3人である。不利な雇用条件にも関わらず、センターの情報資料室の諸活動に尽力されたこれらの方々に改めて感謝したい。

  江森さんは1994年4月以降、総合科学部の研究部門の事務官、後には附属図書館の情報サービス課主任・係長として活躍している。センターの仕事が木上・江森さんの職業・人生に役に立ったのかどうか気になるところである。1994年4月以降、センターの事務部門は事務官2名体制に戻った。情報資料室司書係は非常勤の事務補佐員若干名で担当しているが問題はないのか、老婆心ながら不安の念を拭い去ることはできない。
    
【第11回】 (9)大学教育研究センター長時代―退官までの時期

 センター発足から15年経た時期、センター長は専任研究員の中から選出すべきだという見解が内外から示され、最年長の私がセンター長に選出された。1987年のことである。
 
  この年、臨時教育審議会が最終答申を公表。それに基づき大学審議会が発足した。広島大学では将来構想検討委員会が設置された。私は同委員会副委員長として、本学の将来像の検討の中核的役割を担うことになった。大学研究者の一人として、また大学教育研究センター代表者として、同委員会の審議に貢献することを念頭において、この間の研究成果を中心に編集し、著書『日本の大学教育改革―歴史・現状・展望』(玉川大学出版部、1988年初版)を上梓した。幸いなことに学内外の将来計画委員会等や全国の大学審議会の関係者にも読んでいただく機会を得た。本書は、学術的評価に耐えるだけの内容を有しているとは言い難いが、読者の方々には、私の大学教育改革に対する実践的関心等を読みとっていただきたいと念じている。

  この時期、研究センターに開設した大学院では「比較大学教育論」を担当した。世界の大学の歴史や主要国の近代大学史等を中心に教材を準備し、大学院学生との討論的授業を実施した。大学院の授業は、私自身の大学観・学問観・教育観等を再検討する機会ともなり、発見することも少なくなかった。最大の発見は、われわれが活用している大学史のどの文献も、ヨーロッパ中心主義の観点から記述されている。つまり、大学の起源は中世ヨーロッパにあることが「常識的」前提とされているということである。

  しかし大学史と密接な関係にある学問史・科学史の分野では、中世ヨーロッパの知識人達は、西欧の学問よりも、イスラム世界の学問が優れていると認識しており、イスラムの学問に敬意を払っていたことはよく知られている。現代でも12世紀西欧のルネッサンスをはじめ近代科学の成立には、イスラム文明が大きく貢献していることを認識している知性人は多い。しかしイスラム世界の高等教育機関であるマドラサの研究・教育内容については、アラビア語に無力な私には、活用可能な文献は見出せないままであった。イスラム文明を相対化した大学の歴史的考察・国際比較の仕事は「大学の起源」論にも関わる重要な研究課題であることを発見したのである。

  センター長就任以降、私が実質的代表者として科学研究費補助金を得て実施した共同研究プロジェクトは次の2種である。研究課題「高等教育における教職員開発(SD)に関する国際比較的研究」(1987-89年)と研究課題「大学評価の原理・方法に関する国際比較的研究」(1990-92年)である。理工系分野の出身の私も、広島大学のみならず全国の大学にとって大学改革の重要課題とされたFD/SDと大学評価の問題解明に取り組んだのである。これらの研究成果はセンターの刊行物に集録されている。上記の2つの共同研究は、表現を代えれば、大学教育の改革方法論と大学の自治論に深く関わる研究である。後者に関しては大学紛争期の「大学を考える工学部の会」時代からの、前者に関しては大学改革委員会時代から関心を有していた課題に他ならない。これらの共同研究の成果をふまえて幾つかの大学で講演を行う機会に恵まれた。センター長時代センターの諸事業を何とか推進でき、3期6年の任期を全うできたのはコリーグ諸氏のご厚意と協力によるものである。

  1995年3月、私は無事退官したが、これらの講演記録を中心に編集し、小冊子『21世紀の大学像―歴史的・国際的視点からの検討』(玉川大学出版部、1995年)を出版し、この間お世話になったセンター関係者に配付し感謝の微意を表させて頂いた。
 
【第12回】 若い高等教育研究者への期待

 本センターの若い研究者には人文・社会系出身者が多い。それは大学研究の学問論・方法論に関連しているのであろう。この方々に私が「比較大学教育論」を担当した経験から「特別に」期待していることがある。それは「比較文明論」の視点に立った「大学起源論」に関心と情熱をもった研究者(注1)が、少なくとも10年に1人くらいは現れてほしいということである。

 理工系出身の研究者は、学問の方法論の点で困難が多いとは思うが、今後増加してほしいと思う。わが国は先端科学技術重視政策を採択しており、理工系分野の学問・教育に対する産業社会の関心は極めて高い。にもかかわらず、日本の理学部や工学部には、大学教育の研究機関を整備しているところは皆無に近い。工学系の大学教育の改善に向けた研究・交流等を目的とする協会(日本工学教育協会)は存在するが、理学系分野には大学教育の改善を指向した学協会はまだ存在しない。工学系では協会活動は盛んであるが、工学教育の専門的研究者は皆無である。そのため、日本では本格的な工学教育論はまだ未成立である。これは日本の大学の特殊事情(専門・研究至上主義)によるものであり、欧米や中国の大学の場合は、そうではない(注2)。しかし早晩、理工系分野の大学教育論の専門家が求められる時代が到来することは間違いない。理工系分野に限らず、大学教育の専門的な研究を欠落した状態で、大学教育の質的向上を図ることは困難であるからである。

  理工系学部出身者が大学教育の専門研究者として認められるには、少なくとも10年間の大学論・教育論等の学修・蓄積が必要だろう。他方、その間に科学・技術は大きく進化しているであろう。その時彼等は、進化・変化した科学・技術の学問的内容を理工系分野の先端的研究者と同様に正確に理解することは困難になっている可能性がある。最先端の学問内容を理解できない大学教育の専門家は、理工学部では信頼されず、無用論に結びつきかねない。恐らくこのような事情があるため、理工系の大学教育の専門研究者の登場が遅れてきたのではないかと考えられる。センターの若い理工系出身の研究者の場合、大学教育論の専門家として、理工学分野の先端的研究者と協力体制を採ることによって、上記の難点は十分に解決できるであろう。端的にいえば、理工系出身の大学教育の専門研究者は理工系大学教育の改革・改善のメディエーターとして活躍することが期待されるのである。

  上に論じたことは、部分的には人文・社会系出身の大学教育の専門研究者に当てはまることであろう。理工系分野以上に、人文・社会系分野では大学教育に関する研究体制の整備が遅れている。それだけに人文・社会系出身の高等教育研究者の期待される役割は大きいといえるであろう。

  以上、若い高等教育研究者への期待を述べたが、それが実現可能性をもつには環境整備が重要であり、そのために本センター及び広島大学が果たすべき役割が大きいことは言うまでもない。この問題に関しては『コリーグ』24号(1995)に掲載した拙稿「センターへの期待と要望」も併せて参照していただければ幸甚である。

<注>

 1. 拙稿「センターの将来像を考える」『広島大学高等教育研究開発センター30年の歩み』
    (2002年)所収。
 2. 王沛民他(関・大塚訳)『工学教育論』(玉川大学出版部、1998年)「解説」参照。

< 完 >