【第1回】 生い立ち(大學入学まで)
【第2回】 高等教育との出合(大學・大学院時代)
【第3回】 これまでの研究生活(就職後~現在)
【第4回】 若い高等教育研究者への期待(特に研究への現実的な参入方法)
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【第1回】 生い立ち(大學入学まで)
1930年長野県上高井郡小布施村で生まれた。片田舎の村に幼稚園はなかったから、小学校に入るまで近所の子供たちと毎日遊びまわっており、就学前教育は受けていない。初等教育は当然のことながら小布施村立尋常高等小学校であった。
六年修了後、クラスの約四分の一が中等学校に進学した。誰が進学するかは家の格のようなもので決まっていた。私の両親は明治末期に中等教育を受けていたことから、私も進学組と目されていた。同じ郡内の須坂町には中学校、高等女学校、農学校、商業学校があったが、中学校を選んだのは家が農家でも商家でもなかったからである。
田舎町にあった県立須坂中学校の志願者は定員を少し越す程度で決して難関ではなかったが、なぜか不合格となった。仕方なく高等科に進んだが、上澄み層が中等学校に進学してしまっているため活気がなかった。女学校や実業学校へは高等科卒業後の編入が可能であった、中学校はそうではなかったので一年遅れで入学する破目になった。
しかし今度は一番の成績で合格し、入学式には新入生の総代を務めた。たった一年で評価が一変した理由は多分当時の入学試験が内申書と身体検査の他に口頭試問と体力試験で学科試験がなかったためであろう。
中学一年を修了した時点で大阪陸軍幼年学校に入校した。陸幼を志願した直接の理由は長野連隊区司令部から募集係将校が来校した際に学級担任から指名されたことにある。陸幼は陸軍士官学校や海軍兵学校とは違って軍事教育の専門学校ではなく、普通教育を行う陸軍付属の全寮制中学校だった。中学校とは違って体力試験がなく、中一修了程度の学力試験が実施された。これからも窺えるように意外に学力重視であり、生徒の学力水準も高かった。田舎の中一修了組だった私がなぜか採用試験の成績が良く、軍学校への入学で全国都道府県のワースト・スリーであることに悩んでいた長野連隊区司令部も喜んでくれた。
そうしたことから阪幼の入校式では新入生代表として申告するよう命ぜられたが、入ってから都会の一流中学二年修了組が主流を占める中で授業についていくのに苦労した。もっともそのおかげで中等教育の地域・学校間格差を身にしみて認識することができた。
敗戦による復員後しばらくは家で呆然としていたが、いつまでもニートでいるわけにもゆかず、中学に復学した。中学ではそれまでの級長制度が廃止され、学級委員制度となった。私は生徒会の役員を務め、新制高校への移行に関して他校と協議するなどした。
四年修了時には在校生総代として送辞を述べたが、自分も旧制高校に入るために中退した。旧制高校の受験は修学期間を短くして中学校に一年遅れて入った親不孝を少しでも軽減するのが目的だった。一高受験も考えなかったわけではないが、結局松本高校を選んだのは同じ県内で距離的に近かったからである。同時に学制改革で新制高校に移行する中学校にこれから二年間も在学するのはごめん蒙りたいが、それには中学校の先生方が合格間違いないと太鼓判を押して下さった松本高校が安全と判断したからでもある。
【第2回】 高等教育との出合(大學・大学院時代)
こうして1948年4月に旧制松本高校に入学したが、これが私の高等教育との出会いということになる。というのも我が国では旧制の高等学校は中等教育ではなく、高等教育とされているからである。しかし普通教育である点は中学校と変わりはなく、違う点といえば酒と煙草が容認されたことと第二外国語を課せられたことくらいである。
しかし折角入った松本高校も学制改革のために一年間で追い出されることになった。専門学校生は旧制のまま卒業することもできたが、高校生は新制大学を受験するほか選択の余地がなかった。私は東京大学を受験することにしたが、特に考えた末の選択というわけではない。旧制高校文系の進学先は概ね東大か京大に決まっており、実際私の同級生四十名のうち二十五名が東大に進学している。
しかし新制大学は発足が大幅に遅れ、東大の入学試験が行われたのは5月、入学式が行われたのは7月7日であったから、高校の授業が終了した2月15日だったから四ヶ月以上の空白期間が生じたことになる。志願先を文科一類(法・経コース)にしたのは二類(文・教育コース)よりも卒業後の進路が広いように思われたからである。
駒場における教養課程の授業は旧制高校の授業とかわらず、教授たちも一高、東京高校をはじめ旧制高校からかき集められた人たちであった。学生も第一回生1,828人中の74%に当たる1,353名が旧制高校からの移行組であった。違っていたのは教育条件が旧制高校よりも悪かったことである。1,200名定員だった旧制一高のキャンパスに4千人近くが詰め込まれ、教室も学生で溢れるほど狭隘であった。
学生は語学の授業ではクラスに分けられていたが、クラスは50名編成で旧制高校の40名よりも大きかった。私が属したのは文一2Bというドイツ語既習のクラスだったが、卒業後現在に至るまで毎年クラス会を開いている。前期課程を終了した後、殆どが法学部・経済学部に進学し、官界や実業界に入っている。
そうした中で私は法学部や経済学部ではなく教養学科に進学した。旧制の高等教育は高校三年、大学三年で計六年間であるのに比べ、新制では四年間しかない。学問が昔より高度化しているのに期間が短くてよいはずがないというのが表向きの理屈であるが、本音は旧制高校的生活をもう少し楽しみたかったということかもしれない。
教養学科の第一回生は一高出身者が20名を占め、優秀な学生が多かったが、いくら東大といっても暖簾もなく、OBが1人も居ない新設の学科であり、しかも専門がないときているので、就職口が殆どなかった。その上悪いことに53年3月は旧制大学最後と新制大学最初の卒業生が同時に社会に出た年である。そのため第一回の卒業生52名のうち、実に33名が大学院に進学、その専攻分野は実に22のコースにわたった。
私には法学部か経済学部に学士入学するという選択肢もあったが、それでは奨学金を得られないため、大学院に進学する他なかった。人文学研究科で教育行政を専攻することになったのは、たまたま知遇をえた宗像誠也教授が誘って下さったからである。
むろん入学試験はあったが、全学共通の外国語(五ヶ国語の中から二ヶ国語を選択)と専攻別の論文だけだったから、専門知識がなくても困らなかった。論文の課題は「教育行財政の研究と一般行財政研究の研究に違いはあるか」といったもので、違いはないという趣旨のことを書いた。
当時は大学院といっても授業は殆どなく、研究室の手伝いをしながら先生方や先輩の背中を見て学ぶ徒弟修業であり、その見返りに就職の口利きをして貰うという仕組みだった。そうした大學教員になるまでの待合室のようなところで旧制の大学院学生と一緒に数年間を過した。仕事は教育委員会制度の改正や昭和の町村合併、教員生活などに関する研究調査が主なものであり、修士論文は教員の給与問題について書いた。
【第3回】 これまでの研究生活(就職後~現在)
1957年8月16日付けで北大教育学部に新設された教育制度講座の専任講師に採用された。関西の大手私大からも話があり、待遇はそちらの方はよさそうだったが、当時はまだ旧帝大が権威を持っていた時代であり、周囲の意見に従って北大に赴任することにした。北大では62年12月1日助教授に昇任、64年5月10日の講座担任を命ぜられた。
当時の札幌は今と違って交通不便な蝦夷地だったが、授業の負担は少なく、研究も教育も自由であった。そのため『学校管理運営の組織論』1966年、『専門職とし教師』1969年(いずれも明治図書)を上梓することができた。しかし60年代を通じた大学の急激な大衆化に嫌気がさしていたところへ、大学紛争が起こって研究どころではなくなった。
そのとき国立教育研究所長の平塚益徳先生から大学では落ち着いて勉強できないだろうから研究所へ来たらどうかというお誘いを頂き、70年10月16日付けで国研の第二研究部主任研究官に出向することになった。73年4月12日に第三研究室長に、79年7月1日に第二研究部長に昇任、89年5月21日には所内組織の改組により教育政策研究部長に配置換え、92年4月1日に次長となり、95年3月31日に停年で退職した。
その間、東京教育大学教育学部教育行財政講座の助教授を73年4月から75年3月まで、また筑波大学の大学研究センター教授を87年12月から90年3月まで併任した。しかし諸般の事情から専任になる決断はできず、関係者にご迷惑をおかけした。というわけで研究所には結局二五年間勤務したが、これほど長期にわたって腰を下ろしてしまったのは、講義をせずに済み、学生の指導する必要も無く、教授会に出席する義務も無いなど、生来怠け者の私に適した環境だったからであろう。
国研勤務で最も長かったのは十三年在職した研究部長のポストであるが、所管した第二研究部は教育計画、教育制度、教育行財政・学校管理、教職等の研究室で構成されており、私の研究対象も概ねこうした分野であった。研究所時代の著書としては、『教育行政の理論と構造』1975年、『生涯教育の理論と構造』改訂版1985年、『教育システムの日本的特質―外国人が見た日本の教育』1988年、『教育改革の理論と構造』1900年、『臨教審以後の教育政策』1995年、『未来形の教育』2000年(以上、教育開発研究所)、『教育サービスと行財政』(1983年、ぎょうせい)などがある。
私は特に高等教育に研究対象を絞ってきたわけではなく、自分が高等教育の研究者だとは思っていない。もっとも周囲に何人か高等教育の研究者がいたことから高等教育関係の編著は幾冊か出している。『大学校の研究』1993年、『現代の大学院教育』1995年、『大学大衆化の構造』1995年などがそれである(いずれも玉川大学出版部)。
研究所を停年退職した後、関西にある大手の女子大からお誘いを受けたが、還暦を過ぎた老人が孫のような若い女性を相手に円滑な意思疎通をするのは無理だと考え、お断りすることにした。しかし高齢者年齢にはまだ達していなかったので、お招きに応じて退職後1日置いた4月2日付けで国立学校財務センターの教授に就任した。センターの研究部員は私一人だったから、自動的に研究部長となり、運営会議会長を兼ねることになった。
私がセンターに採用されることになった理由は他に人が見つからなかったということであろう。初代所長の前川正先生(血液内科)は嘉治元郎放送大学副学長(国際経済)に相談されたようだが、嘉治さんは私が教養学科の学生だった時に助手をされており、編集された『教育と経済』1970年(第一法規)の半分以上は私が分担している。
センターに在職した六年間は高等教育研究を職務としたことになるが、予備役召集の身であり、もはや最前線に立つ気力や能力はなくしていた。そのため研究部員の選考や研究会の開催など専ら後方警備的な仕事に終始したが、最後の二年間は天野郁夫さんに部長職を押し付けて“唯野教授”になれた。そのお陰で『高等教育の変貌と財政』2000年、『未来形の大学』2001年(いずれも玉川大学出版部)を纏めることができた。
古稀を迎えて約一年度後の2001年3月31日付けで第二の停年となった。その後は一切定職に就かなかっただけでなく、それを機に関係してきた学会の役員等もすべて辞任し、退役生活に入った。それは若い人たちが活躍する場を塞いで老害をもたらすべきではないと考えたからである。
隠棲してからもボケ防止のために読書と執筆は続けており、『教育基本法を考える』2003年、『教育の私事化と公教育の解体』2006年、『教育基本法改正論争史』(仮題)2009年(以上、教育開発研究所)などを出している。
【第4回】 若い高等教育研究者への期待(特に研究への現実的な参入方法)
というわけでもともと高等教育専門の研究者ではなく、今や現役の研究者でもなくなった私に若い高等教育研究者に注文をつける資格などないし、つけようという気持もない。しかしそう言うだけでは余りに愛想がないといわれそうである。
そこで「特に研究への現実的な参入方法」を示せというご注文に応じて、私が若いときに先輩から教えられた「学者の心得・五箇条」なるものをお伝えすることにしたい。それは以下のようなものである。
「一 長になるな(学長、副学長、学部長、学科長等)。二 委員になるな(政府委員、学内外の委員等)。三 非常勤講師をするな。四 雑文を書くな。五 家事をするな。」
紙幅の関係でその理由を逐一説明することはしないが、要は金や名声よりも時間を大切にせよということであろう。
何しろ半世紀以上も前の教えだから、若い人たちからはいまどき古過ぎるという声も聞こえてきそうである。一理あると思われる人でも百パーセント実行するのは到底無理だといわれるに違いない。専門分野によって事情は異なるとか、研究者と学者は違うといった見解もあろう。そうしたクレームはいずれも尤もだし、私もなるべくそうありたいと心掛けてきたというだけで、完全に守ってきたわけではない。したがってあくまでも御参考に供するというにとどまる。
紙幅が限られているため、私の履歴書は進学・就職などの進路選択に絞った内容にした。したがってそれ以上のことは近く刊行を予定している『教育政策研究五十年』(仮題 日本図書センター)を参照されたい。
< 完 >