2009年11月
「おらが殿様、郷土の誇り」
今でもそうした地域では、かつてのお殿様(大名家)の遺徳をしのび、その御家紋やシンボルを校章のモチーフにした学校があります。
今回は、大学や旧制学校のそうした校章をご紹介しましょう。
「近衛家ゆかりの津軽牡丹」
青森県、と聞いて、ねぶた祭りをイメージする方もいらっしゃいましょう。
青森市が「ね(ぶ)た」、弘前市は「ね(ぷ)た」。
曳く山車(だし)の姿・形はそれぞれ違いますが、どちらにも皿のような台座部分があり、そこに牡丹(ぼたん)の花が描かれています。
牡丹は津軽(弘前)藩主である津軽家の御家紋(図1)。
山車に牡丹が描かれるのは、かつての藩主津軽家にあやかってとも言われます。
そもそも津軽牡丹紋は、京都・近衛家の牡丹紋に由来します。
津軽家と近衛家の関係経緯には諸説あるようですが、ともあれ両家が縁戚関係を結び、これによって近衛家から牡丹紋を下賜されています。
本州最北の津軽にあって、領国維持やお家安堵のために、近衛家という格式ある後見を通じた情報収集やロビー活動は不可欠でした。
津軽家は、近衛家に対して毎年300両の財政支援もしていたそうです。
そうしたことも含め、津軽家歴代の藩侯は領国安定のために尽力し、津軽藩は幕末まで領土安泰でした。
この弘前城下にある国立の弘前大学校章が「津軽牡丹」です(図2)。
この校章は、大学正門にバッチリ輝いて掲げられています。
弘前大学では、弘前城の桜をモチーフにしたカラフルでさわやかな新ロゴマークも制定しています。
ところで、弘前に行くと、「卍(まんじ)」の印が街のあちこちに刻まれています。
マンホールの蓋にも卍!
実はこの卍印は津軽藩の「旗印」で、津軽家紋章としても使われていました。
今日では、これが弘前市章になっています。お出かけの機会あれば、是非ご確認あれ。
「鳥取は因幡・伯耆の角輪紋」
鳥取大学の校章、何を意味しているのか前から気になっていました。
同大学のホームページに、その由来の説明みつけました。
鳥取大学の校章は、鳥取藩主池田家家紋の一つである「角輪紋」にちなんでいるそうです(図3)。
池田家の代表的家紋は平家の系譜とされる「揚羽蝶紋(因州蝶)」ですが、むしろ「角輪紋」は蝶紋以前から池田家家紋として用いられていたとのこと。
○と◇を横に並べた組み合わせは、鳥取藩を構成する「因幡(いなば)の国」と「伯耆(ほうき)の国」の因伯二州を表しているともいわれ、また文武両道を表すものともされたそうです。
鳥取藩は、姫路から池田光政が幕府から32万石を与えられて入封し、鳥取城下町を整備し、発展の基盤を築いています。
鳥取池田家は、外様大名でありながら徳川家との縁戚関係があり、親藩に準ずる家格を与えられ、葵紋と松平姓も許された名門でした。
鳥取大学では、この池田家の御家紋をモチーフとして、1952(昭和27)年に大学の「紋章」として考案、図案化したそうです(図4)。
現在、鳥取大学は、UIブランドイメージ確立の一環として,「Tottori」の「T」を飛翔する鳥の姿に図案化したシンボルマークも制定しています。
「南部・盛岡に武田菱」
1902(明治35)年に設立された盛岡高等農林学校は、岩手大学農学部の前身校。
官立高等農林学校としては日本で最初の学校です。
その校章が、風林火山で有名な武田信玄(武田家)の家紋でもある「四つ割菱(武田菱)」をベースにしています(図5)。
「岩手県の盛岡でしょ?どうして甲斐山梨の武田菱なの?」という疑念はごもっとも。
これには古い古い歴史の経緯があります。
鎌倉時代から江戸時代にかけて、現在のおよそ岩手県中北部から青森県東部にわたる地域を、南部(なんぶ)氏が治めていました。
「三日月の丸くなるまで南部領」といわれるほどの広大な領地です(いまでも岩手県の面積は四国4県に匹敵します)。
この南部氏の遠祖が源光行で、武田氏と同じ清和源氏(甲斐源氏)の流れをくみます。
源光行は、源頼朝の石橋山の合戦に従って功をなし、現在の山梨県南巨摩郡南部町に領地を与えられ、それより南部姓を名乗ります。
その後、源頼朝による奥州藤原氏との合戦にも参加し、ここでも戦功を挙げて北東北に大領を与えられ、ここに定着します。
南部氏は、関ヶ原合戦の頃になると、居城を領地北部から「不来方(こずかた:現在の盛岡)」に移し、新しい城下の発展に尽力します。
やがて藩主は不来方の地名を「森が岡(森岡)」と改め、城下の繁栄いや増すようにとこれをさらに「盛岡」と改称します。
南部家を代表する家紋は「向かい鶴」ですが、祖先・甲斐源氏の誇りを継承する「四つ割菱(武田菱)」も使用します。
南部藩では、菱形2つが交差する略紋も用いました。
大正時代になって、盛岡市はこの略紋を市章に使います(図6)。
盛岡高等農林学校の誘致・設置やその後の大学昇格運動にあたっては、岩手県や盛岡市はもちろん、市民からも公私財が惜しみなく提供されました。
「わが町の誇り」とされた盛岡高等農林学校とその生徒達は、市民から親しみを込めて「高農(こうのう)さん」と呼ばれました。
やがて学校は、この南部藩ゆかりの菱形校章を帽章と釦章に採用します(図7)。
今でも盛岡市内小中学校の多くでは、この交差菱形が校章の基本モチーフとなっています。
盛岡市のシンボルデザインですから、マンホールの蓋にも刻み込まれています。
なお、盛岡市近郊にある岩手看護短期大学の校章は、四つ割菱がそのまま校章のベースになっています。
「殿がおわした鶴丸城」
第七高等学校造士館(だいしちこうとうがっこう ぞうしかん)は、1901(明治34)年、鹿児島市に設置された旧制高等学校です。
ナンバースクールの名称に付された「館号」は、薩摩藩主・島津重豪によって設立された藩校・造士館の名称を継承しています。
明治政府中枢には薩摩出身の大物政治家が多くいたこともあり、維新の英傑を排出した旧藩校名を留める「造士館」の名称が特権的に許可されたといわれます。
七高の誘致・設置にあたっては、旧藩主家である島津重忠公爵が、かつての居城鶴丸城(鹿児島城)の土地や建物、および巨額の寄附を提供しました。
校章は、島津のお殿様への敬慕と七高設置にあたっての恩顧に応え、島津家の居城鶴丸城(白鶴城)に因んで、翼を広げた大鶴に七髙の文字を配しています(図8)。
広く全国から南国鹿児島に集った生徒達は、維新の志士の如く、鶴丸城趾の校地から噴煙上げる桜島と光輝く錦江湾を眺めたそうです。さぞや気宇壮大な心地だったでしょう。
ご参考ながら、現在の鹿児島県立鶴丸高等学校(旧制鹿児島県立第一中学校、鹿児島県立第一高等女学校)の校章も、その名の通りツルマルです。
「マルハチは尾張繁栄のシンボル」
ナンバースクール旧制高等学校のしんがりをつとめる第八高等学校(名古屋市)は、1908年(明治41年)の設置。その校章は、斬新なデザインの「剣光章」です(図9)。
八高の所在地は、熱田神宮のすぐ近く。
熱田神宮といえば、織田信長も桶狭間の合戦を前に戦勝祈願に参じた歴史と格式ある大社です。
そこには三種の神器といわれる草薙(くさなぎ)の剣が祀られています。
天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)として日本書紀に登場するこの剣は、難を払い暗雲を裂いて光をもたらす象徴です。
八高校章は、この剣をモチーフにして、洋数字の「8」を配置しています。
8の字は、無限大を示す「オメガ」にも見えましょう。
この八高剣光章は、正義と平和と叡智のシンボルとされました。
この校章に御家紋そのものがあるわけではないのですが、実は「8」という番号が、尾張徳川様にゆかりの深い数なのです。
○に八の字(マルハチ)は、尾張徳川家の「合印(あいじるし:他者と区別するための印)」(図10)。
もちろん尾張徳川家は葵の御紋ですが、これでだけは将軍家や他の御三家、親藩と区別がつきにくい。
そこで尾張様は「丸八」を合い印として、提灯や荷駄、大名行列の旗印などに用いました。
「丸八といえば尾張様」というくらい当時の定番でした。
八の字は、八幡太郎源義家の定紋である「向かい鳩」にあやかったとも言われます。
末広がりの八でもあります。
こうした所以をもって、1907(明治40)年に「丸八」は名古屋市の市章にもなりました。
名古屋市には丸八の社章や屋号がたくさんあります。市営地下鉄のマークも丸八のアレンジ。
もちろんマンホールの蓋にもマルハチ!
名古屋市に設置された旧制高校も、その「番号採り」をあたかも狙ったかのように「第八」高等学校でした。
なお、旧制第八高等学校の正門は、岐阜県にある「博物館明治村」の正門として、現在もそのまま使われています。
ところで「葵の御紋」といえば、これをそのまま校章とするのが、埼玉工業大学(深谷市)。
さすがにインパクトのある校章です。
この他にも、かつての藩校に歴史的系譜をもつ県立高校や、お城の中に設置された学校など、殿様の御家紋やシンボルをアレンジした校章はまだまだあるようです。
さて、次回は「秀峰、人を育つ」とばかりに、山に関わる大学校章をご紹介しましょう。