2009年8月
桐の木は、初夏になると薄紫や白の美しい花を咲かせます。
かつては、その家でお嬢さんが誕生すると庭に桐を植え、結婚する時には育ったその桐でタンスを作って花嫁道具としたとか。
最近では桐の木も桐タンスも、めっきり見かけなくなりました。
それでも桐のデザインは身近にあります。 500円硬貨の刻印。パスポートの名義人ページ。勲章。
TVニュースで首相会見を見ると、桐花章のついた演説台が使われています。
学校の校章にも桐のデザインが多くあります。
今回は、桐と鳳凰をめぐって大学校章話をいたしましょう。
「まずは桐の話から」
古来中国では、聖天子(徳のある優れた王)が即位すると、瑞兆(めでたい印)である鳳凰が現れると伝えられてきました。
この鳳凰が宿る木として神聖視されたのが桐です。
こうした考えが日本にも伝わり、平安時代の頃より天皇の衣類や調度品に桐や鳳凰の紋様が使われ、桐花紋は菊紋に次ぐ格式ある紋とされました。
中世以降、武力で天下の政権を掌握した統治者は、「庇護者としての忠誠」を天皇や朝廷に示した時、その「褒美」として権威と格式の象徴である桐紋が下賜されました。
こうして桐紋は為政者の紋章にもなっていきます。
桐紋を許された足利将軍家や織田信長、豊臣秀吉といった天下人達も、有力大名や家臣に桐紋の付与をさらに繰り返します。
教科書でも有名な織田信長の肖像画(愛知県豊田市長興寺所蔵)を見ると、信長の装束には織田家の五葉木瓜(もっこう)紋ではなく桐紋が描かれています。
明治時代になると、政府(首相・内閣)の紋章として日本国章に準じて扱われます。
桐の花数が5-7-5となっているのが主に皇室や政府が用いる五七桐(ごしちのきり)。
3-5-3の花数が一般的に用いられる五三桐(ごさんのきり)です。
「筑波の庭に いや繁り」
この桐紋を校章にしているのが筑波大学です(図1)。
東京高等師範学校時代に制定されたこの校章を、東京教育大学時代を経て、今に継承しています。
当初、東京高等師範学校の帽子徽章は、十六弁の菊花紋様に「高師」の字を配したものでしたが、明治36年(1903)に生徒制服の改正にあわせ桐花を採用しました。
この経緯は「教育尊重の意味にして宮内省より特別に允可、ただし宮中の五七の葉を避けて、五三の桐とする」と伝えられています。
初代文部大臣森有礼は「国民教育の消長はその根源たる師範教育の如何による」と考え、中でも高等師範学校には「師範学校の本山」としての重責を託し、明治19(1886)年に師範学校令を公布します。
こうした高等師範学校に対する期待もあって、その後の校章制定にあたっては政府直々に桐紋を認めます。
明治の設立以来、教育・研究界にあまたの人材を輩出した同校の所以をもって、桐にあやかった校章や学校名を採用した中学・高校も少なくありません。
高等師範時代から愛唱される同校の「宣揚歌(桐の葉)」。
開学30周年の平成15(2003)年に「桐の葉は 筑波の庭にいや繁り 三十年過ぎぬ」で始まる四番歌詞が加わりました。
「花ふゝみたる桐の葉を」
岩手大学も桐の校章です。
盛岡高等農林学校や岩手師範学校、盛岡高等工業学校などを前身校として、昭和24(1949)年に新制国立大学として発足しました。
桐章は、昭和27(1952)年に学生・教職員から公募・決定しています(図2)。
翌年には、全学公募により「花ふゝみたる桐の葉を しるしといだく むねの上」という歌詞で始まる学生歌も決定します。
「ふふむ」とは、花や葉がまだ開ききらないこと。じきに花咲く若人のみずみずしい姿を象徴しています。
岩手県の「花」と指定されているのも桐です(県の「木」は「南部赤松」)。
NHKの全国的選考行事によって「県の花」を公募決定したのは、大学の校章決定後の昭和30(1955)年。
たしかに岩手県はタンスや下駄の材料となる南部桐が名産なのですが、桐を「花」と関連づけて考えることはそれまで少なかったようです。
にもかかわらず、桐を「県の花」と決定したことは「岩手大学の桐章や学生歌が影響を与えたのでは」と大学沿革史は記述しています。
岩手大学は、大正元(1912)年建築の盛岡高等農林学校本館(国重要文化財)を保存し、ここで高等農林学校当時の貴重な資料を展示しています。
大学構内全体を市民に開放する「キャンパスまるごとミュージアム」も展開され、四季折々、多くの市民が散策や自然観察を楽しんでいます。
宮澤賢治も学んだこのキャンパス。機会ございましたら、ぜひ「おでってくなんせ」。
浅田次郎の小説「壬生義士伝」の舞台の一つとしても描かれています。
「曹洞宗の寺紋」
鶴見大学も桐の校章を持ちます。
同大学は、曹洞宗大本山總持寺(横浜市鶴見区)が運営(学校法人総持学園)しています。
曹洞宗には大本山が二つあります。
一つは、開祖道元禅師によって開かれた福井県の永平寺。もう一つが總持寺です。
總持寺は、鎌倉時代に瑩山(けいざん)禅師によって能登(石川県)に開かれ発展し、後醍醐天皇からも官寺として認められています。
寺勢盛んとなった總持寺は、永平寺と緊迫した関係の時期もあり、そのことを懸念した徳川幕府によって両寺大本山の法度が定められます。
大伽藍を誇った能登の總持寺でしたが、明治時代に火災で消失し、これを機に横浜・鶴見に移りました。
曹洞宗では、寺紋も永平寺の「久我龍胆(こがりんどう)」と總持寺の「五七桐花紋」を両山紋(りょうざんもん)とします。
曹洞宗の多くのお寺では「龍胆」と「桐花」の両紋が並んでいます。
「龍胆」の永平寺紋は、道元禅師の生家である久我源氏の家紋です。
禅の精神を生かした教育を展開する鶴見大学の校章は、総持寺の寺紋である「桐紋」に「大学」の文字を配置しています。
「鳳凰の姿や、いかに」
桐が五百円玉ならば、鳳凰は十円玉をご覧ください。
ほらね、平等院「鳳凰」堂(阿弥陀堂)。
「洒落かよ!」ではなくて、建物全体が翼を広げた鳳凰の姿を現しているのです。
「???」のようでしたら、じゃあ、もうひとつここは奮発して1万円札の裏側をご覧下さい。
鳳凰堂屋根上に飾られる「鳳凰」(国宝)です。
京都鹿苑寺金閣の屋上にも鳳凰がいます。
桐と鳳凰をセットでご覧になりたければ「花札」をご用意あれ。
「12月」の図柄(桐)の20点札こそが「桐と鳳凰」です。
ところで一口に鳳凰と言いますが、鳳は雄、凰は雌を指します。
中国の古典『荘子』には、鳳凰(鵬:おおとり)について「北冥(北の果ての大海)から、荒れ狂う海風にのり、翼を大雲のように広げ、天空高く南冥(はるか南の大海)にひとっ飛びする」という「図南鵬翼」の話があります。
こうした想像から鳳凰は「飛躍」「雄大」「大器」のイメージにつながり、広い世界への夢を持って努力する若者の姿やその高潔な志と重ねられ、鳳凰やその翼をデザインした校章が制定されています。
「図南鵬翼の志」
旧制高校の校章でいえば、大正9年(1920)年設置の弘前高等学校。
土井晩翠作詞の校歌冒頭には「虚空に羽ばたき南を図る 大鵬われらの徽章とかざす」とあります。
弘前高等学校の校章は、北冥の雪と怒濤の浪を背景にして飛躍する鳳凰が描かれています(図3)。
岩木山を仰ぐ雪深き津軽から、荒波たける天下国家にやがて飛び立とうとする図南鵬翼の気概を示す校章です。
なお、組織としての関係はありませんが、現在の青森県立弘前高等学校(旧制弘前中学校)の校章も鳳凰です。
また、全国の中学・高校の校歌にあって「鳳雛(ほうすう:鳳凰の幼鳥)」という歌詞が使われることもよくあります。
「鳳(おおとり)の翼(はね) 両手(もろて)に開き」
鳳凰の翼は、専修大学の校章にも見られます。
校章は大正10(1921)年に、学生から募集した図案をもとに制定され、1979年(昭和54)の創立百年時には、さらにキリリとしたデザインに修正されました(図4)。
校章は、学問の象徴である「ペン」に「専修」のSを配置し、この基底が「大学」の文字を支え、鳳の翼で包みます。
大志を持って雄飛する若者を意味するこの校章、同大学校歌の二番冒頭では「鳳の翼 両手に開き 世に魁(さきが)けし 我らが大学」と歌います。
天理大学の校章は、天理の「天」と「T」の字とを重ねた図案に「大学」の文字を配置しています。
この上部両端に広がるのが鳳凰の翼です(図5)。
これも荘子の「図南鵬翼」を象徴し、やがて広い世界に羽ばたいていく若人の姿を現しています。
ところで、桐の花は初夏の季語ですが、なぜか花札では12月の札。
これについては「ピン(1月)からキリ(12月)まで」をシャレたとする説もあります。
桐というのは成長力の強い木で、切っても切ってもすぐに新芽を出すことから「キリ」と名付けられたという話もあります。
校章めぐりの話もこれで「キリ」とせず、まだまだ続きます。次回は「殿様の御家紋」をテーマにいたしましょう。