2011年8月
2011年3月11日。この日を境に、私たちは自然の厳しさと人々の優しさをあらためて感じました。
日々あたりまえのことが、いかに大切だったかということも実感しました。
日本全国の大学が被災地の復興支援に向けて、それぞれの取り組みを展開しています。
大学は地域に支えられています。そして地域の力となることが大学の使命でもあります。
今回は、地域発展の願いを託し、郷土の誇りや象徴を取り込んだ大学校章をご紹介しましょう。
「鵜舟とかがり火、陰陽二体」
岐阜市には随所に時代を偲ぶ史跡あります。
司馬遼太郎の歴史小説『国盗り物語』の舞台としても有名です。
稲葉山城は斉藤道三の居城。道三の娘・濃姫は織田信長の正室です。
やがて岐阜城に居を定めた信長は、このころから「天下布武」の朱印を用い、本格的に天下統一を目指します。
長良川は濃尾平野を流れる木曽三川(きそさんせん)の一つ。斉藤道三や織田信長が城を構えた「金華山(稲葉山)」の裾を流れる長良川は、岐阜市の象徴的光景です。
岐阜のシンボルは様々にありますが、その代表的なものに1300年以上の歴史がある長良川の鵜飼いがあります。
篝火(かがりび)を焚いた鵜舟に、伝統装束に身を包んだ鵜匠が鵜を自在にあやつって鮎を漁する様は人々を魅了します。
「長良川薪能」は、清流長良川と名勝金華山、岐阜城を背景に開催される伝統文化の夕べ。
次第に夜の闇に包まれる能舞台。そこに鵜匠の乗った鵜舟が近づいて、篝火から舞台の薪に点火されます。
漆黒の闇に赤々と燃える篝火が舞台を浮かび上がらせ、人々を幽玄の世界に導きます。
岐阜の夏の風物詩として代表的な文化行事になっています。
これら鵜舟とかがり火をシンボライズしたのが岐阜大学の学章です(図1)。
昭和24年に岐阜師範学校、岐阜青年師範学校及び岐阜農林専門学校を併せて、 学芸学部及び農学部を有する岐阜大学が創設され、この学章は、当 時の大学 要覧の表紙を飾っています。
その後、昭和27年に工学部、昭和39年に医学部が設置され、昭和41年に校章の作図方法が正式に決定されました。
そして、この学章には次のような想いが込められています。
1.岐阜大学の学章は鵜舟と篝火を意味する。篝火は学問を、舟は人類の幸福を意味するであろう。
1.陰陽二体の組合せは天地自然を意味する。総ての存在と活動調和とバランスを意味するであろう。
1.黒とオレンジ色の組合せは情熱を意味する。また感性の豊かさと品位を意味するであろう。
1.単純化された形は現代の清潔感と活動性を意味する。それはまた時代の速度と知性を意味するであろう。
「鵜舟と篝火」が岐阜市の象徴であるように、これを取り入れた学章も岐阜大学のシンボルとして定着し、学内のあちこちで目にします。思わず私も生協でバッチを購入してしまいました。
岐阜大学設立60周年(平成21年)に、この校章をモチーフにしたロゴマークも新たに制定されています。
東西文化が接触する岐阜県。そこで育まれた歴史と由緒ある文化のなかで、岐阜大学は「多角的な教育力及び研究力」で地域の諸課題に取り組み、地域社会の活性化に貢献しています。
「カササギの羽は希望のしるし」
佐賀城址の西堀を渡って約200メートルいけば、佐賀大学本庄キャンパスです。
この敷地の一部は、かつて旧制佐賀高等学校の校地でした。
旧制佐賀高等学校は、大正9(1920)年設立の官立高等学校。佐賀大学前身校の一つです。
キャンパスの北東角は、佐賀高等学校正門のあったところ。ここは現在、佐賀県の都市計画と連携し、旧制佐賀高等学校の伝統的風景を継承した「ミニパーク」として整備され、佐賀高校の菊葉校章や寮歌を刻む記念碑なども設置されています。
その校章は、初代の名校長生駒万治先生が、東京美術学校に委嘱して作ったもの。
菊葉の図柄に「佐高」の二字を浮き彫りとします(図2)。
校章記念碑には「質實剛健」の文字が刻まれ、菊葉章が掲げられています。
「簡潔にして気品高い紋所」といわれ、豪宕素朴(ごうとうそぼく:気持ちが大らかで純粋)な「佐高健児」の気概を象徴しました。
佐賀大学本庄キャンパス構内には、この他にも旧制佐賀高校に関する記念碑や遺構が大切に保存されています。
佐賀の街は、縦横無尽に水路が走っています。橋と水路の光景は、穏やかな街並みと美しく調和しています。こうした水路で栽培されていたのが「菱(ひし)」。
茹でたその実は、栗のように絶品だとか。佐賀の秋を象徴する味覚です。
新制大学発足当初、佐賀大学の校章は「菱の葉」のデザインで、前身3校を象徴した「三葉章」でした。
2003(平成15)年、佐賀大学と佐賀医科大学が統合。その新生の象徴として、2005年に「カササギ(カチガラス)」をモチーフにした新学章が制定されます(図3)。
佐賀大学広報誌、その名も「かちがらす」の創刊号(平成16年2月)に学章を紹介する記事がありました。
「新学章は飛翔するカササギ、格調ある篆書体の「佐大」の文字と佐賀大学の英文表記を組み合わせて、格調高さと親しみやすさを併せ持つデザインとなっています。
カササギは日本では佐賀平野に特有な鳥で、佐賀県の県鳥でもあり、国の天然記念物に指定されています。
長い尾と黒と白とのパターンとコントラストが個性的で美しく、本学のキャンパスにも生息し、広く親しまれており、私たちと日常的に共存しています。」
「カササギの翼、尾は角度によって金属光沢のある緑・青・紫等に輝きます。これらの色と佐賀の広い空の青、穀倉地帯の緑を重ねあわせて、学章に用いられている青紫と青緑の2色をユニットとしてスクールカラーとしました。」
かつて佐賀大学を訪問した時、本部棟の屋上に、この学章鮮やかな学旗がひるがえっていたのが印象的でした。
その学旗を見上げていた時のこと。背後から「カッカッカ」「ギーギー」と謎の音。
振り向けば、あれまあ、本物のカササギが鳴いているじゃありませんか!
なにしろ国の天然記念物です。いやぁ、感激でした!
しかし、よくよく見渡せば、あれあれ、あっちにも、こっちにもカササギ。
佐賀大学にとって、いかに身近な存在だということがわかりました。
カササギ(カチガラス)をモチーフに、佐賀大学マスコットの「カッチーくん」も誕生しています。
佐賀は、かつて「佐嘉(さが)」と記し、「栄え」ある郷土を意味したそうです。
不知火(しらぬい)もゆる有明海。佐賀平野には水路がめぐり、蓮の花咲きトンボ舞う。四季折々に美しい棚田の風景。
自然にあふれる豊かな風土。長崎をはじめ、諸国との交流を通して育んできた独自の文化や伝統。
これらを背景に、最新の科学をともなって、地域と共に未来に向けて発展し続ける佐賀大学です。
「こまくさは、大地に深く凛として」
花の形が馬( 駒) の顔に似ていることから名づけられたのが「こまくさ」。
他の植物が生育できない厳しい高山地に育ちます。
「高山植物の女王」とも呼ばれる淡紅色の美しい花です。
この「こまくさ」を学章とするのが信州大学。
1949(昭和24)年、新制大学としての発足当初、「襟章」図案を当時の信州大学厚生補導部が学生・一般に募集して採用された図案だそうです。
以来、信州大学のシンボルとして「こまくさ」マークは大切にされ、2010(平成22)年3月には、学章として正式に制定されました。 (図4)
こまくさは、信州の高山と共生し、厳しい気候や環境に耐えながら大地に深く根を下します。
ただ美しいだけではない、こまくさのそんな姿が大学の象徴としてふさわしいのかもしれません。
信州大学は、その理念の一つに「信州の豊かな自然、その歴史と文化、人々の営みを大切にします」と謳います。
あわせて「信州大学で学び、研究する我々は、その成果を人々の幸福に役立て、人々を傷つけるためには使いません」と宣言します。
前身校の歴史的背景もあって、長野県内四つの都市にキャンパスをもつ信州大学。
特色あるそれぞれの地域に根ざしながら、未来の社会を担う人材を育て、世界に拓く研究を展開しています。
こまくさのごとく、地域に深く根ざし、気高く凛としています。
「われらの青春ここにありき」
旧制松本高等学校は、信州大学の前身校の一つ。
1919(大正8)年に、新潟、松山、山口の各高等学校とともに我が国9番目の官立旧制高等学校として設立されました。
全国各地の熾烈な誘致合戦の結果、一斉同時に設置されたのがこれら四校です。
そのこともあって「ナンバースクール」校名ではなく、いわゆる「地名スクール」となり、以後に新設される官立高等学校は、地域に根ざしたこの命名方式が採用されます。
同校の校章は、「九番目」の官立高校であることを示す放射状の9本線が「高」の字を囲みます。これを抱くようにして「松の葉」を配置。松葉は、松本を現し、あわせて松の緑の節操と繁栄を象徴します。(図5)
現在、旧制松本高等学校があった敷地はそのまま「あがたの森公園」となっています。
公園内には旧制松本高校の校舎と講堂が保存され、国の重要文化財の指定を受けています。
西洋建築様式を簡略化して応用した大正時代の代表的木造洋風建築で、学校建築史上貴重な建造物です。
教室や校長室、玄関ホールや廊下など内装も当時のままに再現されています。
明治期に建築されたナンバースクール校舎とは違い、本館の入口が敷地外に直面する「隅入りコの字型」の校舎です。
大正デモクラシーの波の中から生まれたと言われるこのスタイル、旧制佐賀高校校舎も同様でした。
旧制松本高校校舎は、映画やドラマでもしばしば登場します。
校舎と講堂は現在「あがたの森文化会館」として、市民の教育文化活動に活用されています。
私が訪問した時は、市民コーラスの歌声が響き、郷土史研究グループも会合をしていました。
公園敷地には松林の一角(「あがたの森」)が松高当時のままに残され、そこに松本高等学校跡の碑が設置されています。
「われらの青春ここにありき」
そこに彫られている力強い特大の文字の碑文です。
松高の「青春群像」は、北杜夫の「どくとるマンボウ青春記」にいきいきと描かれています。
松本市の予算が20万円程度であった大正期。「是非とも我が街に高等学校を!」と市は2万円の地代と10万円の寄附を用意したそうです。
こうして誘致され、松本の街の人々から大切にされた松本高等学校。
その学窓を巣立った卒業生は、山のみえる松本の風景をいつまでも愛し、松本の街を愛し、松本の母校を大切にしました。
あがたの森文化会館には、「旧制高等学校記念館」も設置されています。旧制松本高校のみならず、全国の旧制高等学校関係の貴重な資料を集めて展示している旧制高校ファンの「メッカ」です。
文化会館には、無料のレンタサイクルもあって、松本市内の観光に重宝ですよ。
多くの大学は自らの重要課題として「地域に対して出来ることは何か」、「地域にとって大学とは何か」を常に考えています。
地域発展の願いをこめて、校章にふるさとの誇りを織り込む大学もたくさんありますね。
(第5話「殿様の御家紋」、第6話「秀峰、人を育つ」もご参照下さい。)
さて次回は「よぉーく見ると、なるほどねえ!」の校章話をいたしましょう。