-第14話 「強く、優しく。百合の花」-

2012年9月

「まずは百合の話から」

図1 白百合学園

図1 白百合学園

百合(ゆり)の花は、純潔、謙虚さ、優しい心、あるいは美のシンボルとされています。
古代ローマでは「希望」の象徴であり、キリスト教では聖母マリアの「持物(アトリビュート【注】)」になっています(注:伝説上・歴史上の人物や神話上の神と関連付けられた持ち物。その存在を特定づける付随物)。
こうした百合の花の象徴させるものとして「フルール・ド・リ(ス)(仏語:fleur-de-lis もしくは fleur-de-lys)」と呼ばれるデザインがしばしば使われます(図1)
直訳すれば「百合の花」。
そもそもはアヤメ(アイリス)の花を様式化したものだとか。
それはともかく、「フルール・ド・リ(ス)」は聖母マリアを信奉する教会や王侯貴族の紋章に取り入れられました。
日本でもミッション・スクールの校章として百合の花を多く見ることができます。
 
「清くかんばし 白百合の」

「フルール・ド・リ(ス)」の校章で有名なのは学校法人白百合学園です(図1)
同学園は、シャルトル聖パウロ修道女会を設立母体とし、東京・仙台・盛岡・函館・
八代の全国5ヶ所の法人姉妹校、ならびに学校法人湘南白百合学園、学校法人函嶺
白百合学園の2カ所の姉妹校で、カトリック精神に基づいた女子のための全人教育を行っています。
その始まりは1878(明治11)年。3人のフランス人修道女が母国を遠く離れた函館の地で修道院を創設しました。
彼女たちは授産所や施療院、養護施設も開設し、奉仕の精神をもって人々に尽くしました。
1881(明治14)年、二人の修道女が函館から東京に移り、学校を新設します。
これが白百合学園の第一歩です。
キリスト教に対する人々の認識が十分ではなかった当時にあって、学校運営の苦労は並大抵ではありませんでした。しかし、この学校の精神や品格ある教育が、次第に東京の人々に受け入れられ、「赤煉瓦の女学校」として親しまれていきます。
1910(明治43)年には高等女学校の認可を受け、校名を仏英和高等女学校と改称します。
1916(大正5)年には、金地に銀で白百合(フルール・ド・リス)をあしらった校章を制定しました。
校章について、学校法人白百合学園のホームページには次の説明があります。
『白百合の花は、聖母マリアのシンボルであり、清らかなやさしさを持つ、凛とした女性の姿を象徴しています。またこれは聖女ジャンヌ・ダルクが祖国フランスを救うために掲げた正義の旗印でもあります。
生徒が、この花のように気品を持ち、優しくりりしくあってほしいという願いと、愛に満ちた社会の建設のために努力してほしいという思いがこめられています。』
当時の生徒さんは、この由緒ある校章をはかまの紐やバンドにつけて同校に学ぶ誇りのしるしとしたそうです。
1935(昭和10)年には学校の名称も白百合高等女学校と改められました。
シャルトル聖パウロ修道女会の学校は、明治以降、全国の同修道女会管下地区に設立され、それぞれに校名がありました。
しかし、第二次大戦後の学制改革を機に、同一精神によって教育される姉妹校としての意識と自覚を強めるため、幼稚園から大学まで、各地区すべての学校が白百合学園の称号を用いています。
それぞれの校章も、学校名にふさわしく百合の花で統一されました。
湘南白百合学園のホームページでは「百合のマークは、フランスのルイ王朝の紋章であり、これを校章に採用したのは、本学園がフランスのカトリック系ミッション・スクールで、設立者がフランス人という国際性を示すものでもある」と説明されています。
学園の精神が織り込まれた「清くかんばし 白百合の」で始まる校歌も、全国の姉妹校共通で歌い継がれています。

「栄光の立教」

図2 立教大学・楯のマーク

図2 立教大学・楯のマーク

東京の池袋駅西口を出て、賑わいの中を10分ほど歩くと、西洋の邸宅のような風景が現れます。
レンガ造りの正門と鮮やかな芝生の前庭。ツタの絡まるチュダー様式の風格ある建物。
立教大学池袋キャンパスです。
小学校から大学・大学院を擁する立教学院の始まりは、1874(明治7)年、アメリカ聖公会の宣教師ウィリアムズ主教が東京・築地に開いた聖書と英学を教える小さな私塾でした。
1918(大正7)年に池袋に移転。これを機に、当時のライフスナイダー総理が建学の精神を具体的に表現するものとして、楯のマークと標語を定めたと言われています(図2)
このマークには十字架と聖書が「立」の文字とともに配置されています。白色の十字架はキリストの純潔を意味します。聖書に記されているのはラテン語で「PRO DEO ET PATRIA(神と国のために)」。“MDCCCLXXIV”はローマ数字で創立年度の1874年を示しています。

図3 立教大学・セントポールズ・リリー

図3 立教大学・セントポールズ・リリー

この楯のマークとともに、在学生にも卒業生にも愛着を持たれているのが百合のマーク“セントポールズ・リリー”です(図3)
立教学院のホームページではこう説明しています。
『立教の学生や生徒、児童、各校の卒業生に広く愛用されているユリの紋章は、1932年、学生キリスト教団体「立教ローバース」によって使用され始めました。
ユリは純潔の象徴とされ、キリスト教と深いつながりを持っています。
元来、ユリの紋章は神の三位一体性を象徴したもので、キリスト教国では勝利の記号に用いられますが、本学院では知・徳・善あるいは、愛・正義・誠を象徴するものとして使用されてきました。2009(平成21)年に、正式にセカンダリー・シンボルとして位置づけられました。』
東京六大学で活躍する立教大学野球部。帽子にはセントポールズ・リリーの金モールが刺繍されています。
かつて長嶋茂雄選手も、このマークをつけて神宮で大活躍しました。
運動部の多くも部旗やユニフォームにこのセントポールズ・リリーを印しています。
愛と正義の心を燃やす「行け立教健児」の誇り高きシンボルです。

「強く、優しく。」

図4 金城学院大学

図4 金城学院大学

名鉄瀬戸線の、その名も「大森・金城学院前」駅を降りてゆるゆると坂道
を上っていくと、そこは豊かな森に囲まれた美しいキャンパスの金城学院
大学(名古屋市守山区)です。
金城学院の起源は、1889年(明治22年)、アメリカ南長老教会宣教師ミ
セス・ランドルフが私邸の中に開いた私塾でした。
当初、生徒はわずか3人。
それが現在では、幼稚園、中学校、高等学校、そして大学・大学院を構成する東海地域有数の女性のための総合教育機関となりました。
しかし、その教育方針は開学以来ぶれることなし。
生徒・学生の一人一人に向き合いながら、聖書の教えに基づき、豊かな人間性と深い学識をバランスよく兼ね備えた品格ある女性の育成に力を注でいます。
金城学院の校章は紅の十字に白百合をあしらったもの(図4)
同学院全学同窓会である「みどり野会」が編纂した学院創立百周年記念文集「みどり野(1989年刊行)」を開くと、校章についてこう記載しています。
『白き百合の花は純潔をあらわし、紅の十字は犠牲的愛の精神を表したものであって、金城創立の精神の象徴である。』
この校章デザインは1920(大正9)年に全校から募集して選ばれました。記念文集では、それを応募して採用された卒業生さんの想い出の手記が掲載されています。
大学キャンパスには、鐘塔が美しいランドルフ記念講堂をはじめ、あちこちにこの校章が掲げられ、美しい景観と素敵に調和しています。
校章入りグッズは各種取りそろい、学生さん達のお気に入りです。
金城学院大学の教育スローガンは「強く、優しく。」
強さとは、さまざまな課題に立ち向かうことのできる力、自分の思いを貫く意志のこと。優しさとは、他人をいたわり思いやる心、他者を認める寛容さ、謙虚さ。
この2つをあわせ持ち、社会に貢献する女性が学院から巣立っています。
在校生や卒業生、そして教職員も、こうした金城学院に対する想いは格別。
強い愛校心の絆で母校とお互いが結ばれています。
「紅十字と白百合」の校章は、学院スピリッツと母校愛が凝縮された大切な存在なのです。

「社会の恩に報いるために」

図5 神奈川工科大学

図5 神奈川工科大学

百合の校章を持つのは、ミッション・スクールだけではありません。
地域を代表する花として、百合を校章に採用した大学があります。
「神奈川の屋根」といわれる丹沢山系を間近に仰ぐ厚木市に位置する
神奈川工科大学。
その校章は、丹沢に咲く神奈川県の県花「ヤマユリ」を三つ配置し、
中央に「大学」の文字を据えています(図5)
大洋漁業(株)の創業者・中部幾次郎(なかべ・いくじろう)翁は、早くから「教育への貢献という社会的使命」を自覚していました。
神奈川工科大学は、その遺徳を継承した三代目社長の中部謙吉(なかべ・けんきち)氏による幾徳工業高等専門学校の創立に始まります。
自らが高等教育を受けられる環境になかった謙吉氏は、若い人たちに教育を与えることへの強い熱意を持っていました。
昭和29(1954)年、中部家は保有する大洋漁業の株式を基礎にして中部奨学会を設立し、若者達への学資支援を始めました。その支援を受けた学生は数千人に及びます。
さらに「小さな規模であるが、費用もかからず、空気のよい所で心おきなく勉強できるような学校を作り、社会の恩に報いたい」という願いを強くした謙吉氏は、神奈川県厚木にある大洋漁業の所有地7万坪の半分を使い、昭和38(1963)年、幾徳工業専門学校を設立しました。
「学問と人間を並行して親切に教育し、学問は静かに勉学に励めて、学費は家庭の負担を軽く、教師は優秀熟達を選ぶ」。謙吉氏は建学への想いをこう書き残しています。
ですから「授業料は国立よりも少し高いぐらい。寄付金もとらない」の運営でした。
昭和50(1975)年には幾徳工業大学が開学。昭和63(1988)年には、大学の在地を明確にして、より一層の科学技術を重視するという立場から「神奈川工科大学」と改称しました。
創業者と学園創設者の思いは今も受け継ぎ支えられ、次世代への歩みを進めています。

百合を校章のモチーフにした大学には医系総合大学の昭和大学もあります。
ミッション・スクールの清泉女子大学や聖心女子大学も校章に百合が取り込まれています。