【第1回】 「暗中」からの出発
【第2回】 高等教育史・大学史研究へ
【第3回】 戦後大学改革研究の出版
【第4回】 仕事なし、 学位論文へ
【第5回】 博士論文・大学紛争
【第6回】 幾つかのこと-次の世代の方たちへ
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【第1回】 「暗中」からの出発
高等教育・大学の研究は、昔は全くのボランティア活動だった。若い世代の方たちにこう言っても信用してもらえないかも知れない。
(1) 教育学者に大学研究などできるはずがない。哲学者か歴史学者の仕事だ。
(2) 高等教育研究で大学院を出ても就職口はない。小・中・高の教員を養成する教職課程にそ
んなテーマの授業科目はないからだ。
(3) 大学や高等教育機関は一つ一つ違い、教育のやり方や内容も全国に同じものはない。調
査や見学のしようもない。「学問の自由」を侵すからである。いったいどういう方法で「大学
教育研究」ができると思うのか。
(4) 大学には目くるめくほど細分化された専門領域がある。それを横断した「教育研究」などと
いうものが成り立つはずはない。大学教育は確かにそこに「ある」が、「研究」できるもので
はない。
私が大学院に進んだ1957年頃の大学内の常識は、こんなものだった。少なくとも大学紛争の前、1965、6年頃まではそうだった。
それが変わった。多くの国立大学に大学教育研究センターができて私学にも広がり、全国学会が二つもでき、大学問題シンポジウムがあちこちで毎月のように開かれ、何百人もの聴衆が集まり、教職員はFD活動やSD活動の仕方に本気で悩み、大学史研究をやっていても年史編纂の口がある。そんな時代が来ると誰が思ったろう。
今70歳前後ぐらいの高等教育・大学研究者が研究をはじめたころ皆大なり小なり同じような目で見られていたと思う。私はと言えば、上の予言の(2)はみごとに当たった。大学院を終わった後、丸々3年半は失業した。家庭教師と妻の収入が生活の支えだった。非常勤講師の口もなく、ときに来る就職話は必ず立ち消えになった。
そんななかで、どうしても大学研究を始めたか。きっかけはあまり立派なものではない。学生時代、一時大学を離れたからである。
実家は九州で明治時代以来、代々呉服屋をやっていたが、1954年春に倒産しそうになった、3年生の終わりの春休みに家に帰ったところ、店の2階で債権者会議が開かれていて、東京に戻るどころの騒ぎではない。店の再建のためには直ちに休学しないといけない事情になっていた。それから丸2年間、呉服屋の番頭のまねごとをする羽目になった。来る日も来る日も商売と債権者へ応対に追いまくられ、それまで考えたこともない日が続いた。その中で、「いったいあの大学生活というのは何だったのか」と思わされるようになったのである。
当時、九州大学の分校は、実家のある町(福岡県久留米市)にあった。繁華街に面したわが店の前は通学路である。向かいの道をいつも大学生たちが通る。中にはもとの高校(福岡県立明善高等学校)の同級生たちの姿もある。店の戸を開けたり掃除したりしながらそののんびりした姿を見るたびに羨ましかった。こちらが「学生でない」からではない。生活の相がちがうことが伝わってくるからだ。
必死で反物やユカタを売ること、途方もなく広がった債権者たちに頭を下げて、少しずつ日賦を払っていくこと、そういったなかでかろうじて支えられるこちらの生活と彼らの生活との何たる違いか。勉強さえしていれば誰にも後ろ指を指されず、ときにはほめてもらえる生活と、今自分の置かれている暮らしとの何たる落差。数ヶ月前まで自分も全くあの通りの暮らしをしていたのだ。
そんなことを思って過ごしているうちに羨望は疑問に変わってきた。
「税金で大学を建て、そこで勉強しさえすれば勤めが果たせるというような仕組みを誰がいつつくったのか。そういうことが許されるのはなぜか」。もし大学に帰ることができたらそれを調べてみよう。でも、無理だろうな、退学は避けられないだろうな。そう思っていた。でもこれが「大学史研究」への入り口だった。
【第2回】 高等教育史・大学史研究へ
休学を始めた翌年の1955年に店は全くつぶれ、家族(父母、妹二人)とともに一時大阪に越し(弟がいて一緒に休学していたが1年前に東大に帰っていた)、1956年春に東京大学教育学部教育学科に復学した。そのとき同級生になったのが、潮木守一氏である。かつて級友だった麻生誠氏は、大学院の修士2年目にいた。
「卒業論文では高等教育をやろう」 と思っていた私は、ためらうことなく、<明治初期の高等教育と学生の関係>を勉強してみようと思った。当時、学科には教授に海後宗臣・牧野巽・勝田守一、助教授に大田尭・清水義弘の各先生がおられたが、 テーマについて誰からも賛成も反対もされなかった。ただ、「歴史をやる」ということから、「日本教育史」の講義のあとおずおずと相談に行った海後教授からは「では『学士会会報』を見るといい」と言われ、神田の事務局への紹介状を書いてもらった。たしか学部長や学術会議会員などを兼ねておられた教授が、1学部学生のためによくぞあんな面倒を見てくださったものと思わずにいられない。おかげで、今思えば生まれてはじめての学外資料調査をやることができた。あの『学士会会報』がなかったら、卒論の第1章は書けなかった。「明治期における高等普通教育の成立-学生の生活と意識を中心として」という題だったが、枚数が多いだけの荒削りな論文だったと思う。
だが、あれほど夢中で調べ書いたことはなかった。とにかく嬉しかったのだ。仕送りなど望むべくもなく、家庭教師のアルバイトと奨学金が頼りだったが、「勉強さえしていればいい」という暮らしが、2年ぶりにできる! 休学・労働の2年間のおかげで、思いもよらず強い学習意欲が生まれていた。
次に嬉しかったのは、休学中に考えた疑問を解くことができる、という幸運である。<書きながら自分に向き合う>という経験は、密度の高い1年をもたらしてくれた。途中から、これは1年ではもったいない、もう2年ぐらい勉強しよう、と言う気持ちが湧いてきて、「大学院に行こう」と思い始めて、そのとおりになった。
修士に入ると、今度は指導教官なしではすまない。思い切って海後先生のところへ行き「やはり卒論テーマを発展させて高等教育史をやりたいと思います」と言って、すぐ認めてもらうことができた。これが大学院生活の最初だった。
2年後、今度は「旧制高校における人間形成」という修士論文を書いたが、生活費と本代をまかなうにはやはりアルバイトが忙しく、女子高校の国語科非常勤講師を週10時間ぐらいやったので、修士論文にはいい思い出がない。要するに時間のかけ方が足りなかったというほかはない。のちにひどく感心してくれたのは、Schooldays in Imperial Japan を出したアメリカからの留学生ドナルド・ローデン君ぐらいで、当時のスタッフの誰からも誉められたことはなかった。だが博士課程には何とか進学できた。
高等教育史研究に大きな便益がもたらされたのは1年次の後半からである。そのころ東大とスタンフォード大学の間で戦後日本の教育改革を研究する大きなプロジェクトが始まっていて、そのチーフが海後先生だったのである。先生が受け持たれていたテーマが「高等教育」だった。そのリサーチアシスタントになってほしいと依頼され、一切のアルバイトをやめて、秋からこのプロジェクトの一環に参加することになった。今から思うと、これは重大な転機だった。
【第3回】 戦後大学改革研究の出版
スタンフォードとの共同プロジェクトは、正式には1959年秋から始まった。海後教授からの指示を受けながら、それまでやったことのなかった戦後大学改革の調査研究をおぼつかなく始めた。
それだけでもショックなのに、研究費を使って早速ニューヨーク大学からJ.ラッセル教授(Dr. John Dale Russell)夫妻が来日したのである。教授は「高等教育」の専門家で、毎日のように大学に「通勤」してくる。海後先生はそのころ日本学術会議の第一部長であったばかりでなく、矢内原忠雄元総長たちと一緒に学生問題研究所を創設されている最中だったと思う。ラッセル教授とのつきあいの大部分は、私が受け持つことになった。
ラッセル教授は60歳あるいはそれ以上であったろうか。日本語は全く解しない。こちらは必死の英会話である。しかも勤勉さとエネルギーはすさまじいもので、 タイプライターからは日に何十枚ものレポートが吐き出されてくる。それに基づいて「話し合い」をしなければならない。へとへとに疲れた。短期大学の見学に同行したこともあって、楽しい思い出になっているが、会話など少しもうまくならなかった。しかしアメリカの研究者の仕事のしぶりを近くから見ることができたのは幸いだった。またたとえばミッションリポートをどう読むかといった作業一つでも、大いに参考になった。「あそこの表現をどう解したらいいか、聞いておけばよかった」などとしばしば思ったが、残念ながらそれは翌1960年春に夫妻が帰国した後である。教授は、一介の大学院生を前にさぞ歯がゆい思いをされただろうが、こちらは思いもかけず国内で「留学」したほどの恩恵を蒙った。教授はミシガンの高等教育計画にも参加していた。また話しの中でいかに「高等教育機会」というものに強い関心を持っているかも分かり、その後の私の研究にも大きなヒントになった。
こうして始めた戦後高等教育研究が本になったのは、9年後の1969年だった。遅れた理由、共同研究のその後などについては、全て割愛するほかはない(稲垣、2001年)。何しろ60年安保から70年安保直前のころの日米共同研究である。精神的環境は厳しかった。結果的には、プロジェクトそのものはほとんど成果を生むまでに至らず、しばらく放置された後、海後名誉教授が全ての責任を取られ、東京大学出版会の「戦後日本の教育改革」シリーズ叢書として形をなし、その第一回配本が海後・寺崎著『大学教育』になったのだった。私はすでに野間教育研究所にいたが、就職する前からこの巻の過半部分を書いていた。27歳から書き始め、中断を経て36歳で本になったことになる。
一つのことを付け加えておこう。題名のことである。はじめ「高等教育」という題名になるはずだった。もともと共同プロジェクトの組織は米国教育使節団報告書の構成に沿っていた。これを引き継いだ叢書も「教育理念」から始まり「教育課程」「教育行財政」「教師教育」等々を経て「成人教育」で終わることになっていた。7-800枚完成していた手元の原稿もHigher Educationの訳たる「高等教育」となっていた。だが東京大学出版会から、疑問が出た。「『高等学校教育』の巻と間違えられるのではないか」というのである。海後先生とも何度も話し合ったあげく、「思い切って『大学教育』にしよう」ということになった。おかげで、戦後初めての「大学教育」と題する本になったのである。
若い方々は不思議に思われるだろう。あのころまで「高等教育」は通用性がなく、「大学教育」は、研究世界ではタブーに近い言葉だったのだ。
【第4回】 仕事なし、 学位論文へ
5,6年さかのぼった話になる。未完成の『大学教育』の原稿を抱えたままで歳月を過ごしていたころも、自分の博士論文のことはずっと気になっていた。
海後教授は、1962年春で東大を停年退官された。それは私が博士課程3年を終わる年だった。指導教授を改めて勝田守一先生にお願いし、以後2年間のオーバードクター生活に入った。やることは博士論文しかない。纏めたいのは明治期である。だがテーマがなかなか決まらない。あのころの記録を「博士論文途上記録」という文書綴りにしていたのを取り出して繰ってみた。博士課程3年のころまで全体構想があやふやだったころが、よく分かった。視点が決まっていなかったのだ。旧制高校研究で修士論文を書いたが、それで続けていく気力はなかった。他方、戦後大学改革研究をやったおかげで関心は大学史に移っていたが、 焦点を定めるきっかけが掴むめない。残っているメモを見ると、はじめは日本の近代大学発生史を通史的に纏めたいと思っていたようだが、それでは学位論文にならない。海後先生からもゴー・サインは出なかった。
だが、1962年あたりから二つのきっかけが与えられた。
一つは、停年になられた海後先生を囲む共同研究を稲垣忠彦君・佐藤秀夫君・宮澤康人君たちと62年春から始めたことである。國學院大學図書館の井上毅文書(梧陰文庫)を徹底的に研究した。始めてみると、明治期大学史研究に多大の関係があることがわかった。講座制、帝国大学令改正、分科大学教授会の出発、その他およそ帝国大学史に関する原文書が約860点の教育関係文書中180点ほども含まれていることがわかった。成果たる海後編 『井上毅の教育政策』(1968年、東京大学出版会)の「高等教育」という章を受け持ったのだが、 この研究は博士論文への無二の基礎になった。
もう一つは、勝田教授が1960年から大学院の授業に「大学の自由の歴史」という題を掲げられ、毎週、完全な講義システムでヨーロッパ大学の歴史を講義されたことである。
ヨーロッパ大学史の基本テキストを選んでその要点を通史的に語られる。聞きごたえがあった。ラシュドールやディルセはもちろん、多くの著作から学ばれたことを、綿密なノートをもとに紹介されて行った。
それを聞くうちに、「大学の自由と自治」を焦点にして日本の近代大学成立史を纏めよう、と思うようになった。博士論文の主題が決まって行ったのだ。最初の学会論文は、1964年に 『教育学研究』 に投稿した「日本の大学における自治的慣行の形成」(第32巻2号)で、1965年9月に掲載された。32歳のときだから、ずいぶん晩生(おくて)の出発だった。その直前の6月、ようやく野間教育研究所という財団法人に就職していた。
しかし、大学自治のあり方を中心に明治前期の大学史を纏めようと思った動機はこれだけではなかった。戦後研究プロジェクトに参加していた1962年から63年にかけて、周知のように中央教育審議会の 「大学教育の改善について」 の答申が纏まろうとしていたが、その中で、「大学管理法問題」が大きな議題になり、大学側と政府・文部省の間に戦後2度目の激しい対立が起きていた。その中で否応なく大学自治の議題が浮かんできていたのだった。大学側一般だけでなく国立大学協会までも巻き込んで立法反対運動が激しくなって来るにつれ、1963年夏以降、東大はその中心舞台になっていた。
戦後大学史の基本資料を集めながら、こうした状況を肌身に感じて過ごすにつけ、私の中には大きな疑問が起きてきた。「大学は自治の場だ、それを侵すことは許されない」という大学側の論理の根拠についての疑問である。平たく言えば、[大学は今そんなに自由なんですか。それほど自治的なのですか]という疑問がどうしても起きてくる。
もちろん憲法の「学問の自由」の原理に即しても、当時中央教育審議会が議していた大学管理運営法案制定の論理には根本的な問題が含まれていることは明らかで、反対すべきものと思われた。筆者はもちろん 「大学側の子」であった。だが、上のような疑問に根拠をもって応えることは、きわめて難しいことに思われた。
理念から下降して大学の実態を「大学の自治事件史」として描くだけでは、説得力を持ちえない。それまでの「大学自治の歴史」書は、日本の大学自治の期限は大正初期の京都帝大の沢柳事件だと記していた。はたしてそうか? あの前に、大学は実際にどう運営されていたのか?その運営慣行の中に、沢柳事件を「事件」たらしめる条件がすでに醸成されていたのではないか?そもそも「大学の自治」とは昔から今まで一本の材木のように横たわっているものか。時代時代によって実は異なる内容と構造をもち、大学の具体的なありようの中に姿を変えて現れ、また変遷もしてきたのではないか。それはどういう制度構造の中で、どういう人々のどのような意識に支えられて現れ、今日あるものなのか。そこが分からなければ、「自治は大学にとって不可欠なものである。大学はそれを守るために闘ってきた。それを保障するのが国家社会の努めだ」という大学側の論理は、広く受け入れられるとは思えなかった。
こうした考えが、次第に大学自治の歴史的研究を徹底させるように私を導いていたように思う。また共同研究作業の中で、学部のファカルティーとの交渉が増えるにつれ、自治の慣行と東大という威信との上にあぐらをかいて、ろくに研究らしい研究をしていないメンバーへの不信や憤りも芽生えていた。今ふうに言えば、言説には欺まされまい、歴史の中で「大学自治」なるものをリアルに冷静に見極めることに専念しよう、と思うようになったのだった。
こうして、<大学政策、管理法制、運営慣行、大学人の意識と政治・社会動向という四つのファクターの連関構造の中で大学の自由と自治を明らかにしてゆく>という研究姿勢が次第に固まってきたのだと思う。
身分と就職の話に戻ろう。
1962年4月から2年間は籍があったが、64年4月からは身分証明書というのを持てなかった。60年に結婚していた妻が生計を支えてくれなかったら、どこへでも就職して行っただろう。ただし、公開公募方式は広まっていなかったし、それ以外の就職話もほとんどなかった。東京以外の地の旧帝大に助手で行かないかいう話しが一つだけあったが、それに応じると、博士論文も「戦後大学改革研究」も難破してしまう。感謝しつつ辞退した。 また東京の私立短期大学から教職課程に来ないかという話があった。珍しくも海後先生の紹介なので確かだと思われた。だが、最終段階で断られた。「ミッション系なので同信者の方を入れたい」というのが表向きの理由だったが、前任の人はキリスト教とは縁もゆかりもなかった。間違いなく専攻が禍いしたのだと思う。冒頭で書いたように、教職課程に「高等教育」や「大学史」などの専攻者は要らなかったのだ。
【第5回】 博士論文・大学紛争
『近代日本における大学自治制度の成立過程』という題の博士論文は、財団法人野間教育研究所に就職して1年3ヵ月後の1966年9月に、ようやく提出することができた。大学院を退学してから3年以内に提出すると課程博士の扱いになる、というシステムだった。1964年3月末日の退学から数えると67年3月を過ぎれば猶予期限切れになる。あと半年を残して、課程博士に滑りこむことができた。海後先生は、のちに書くように、新制大学院制度と学位制度に対して稀に見る斬新な理解を持っておられた。私が博士論文をあきらめないでいられた最大の背景は、海後先生の指導理念だった。
あのころはまだ人文系博士学位を取るのは全く稀なことで、指導教授がどのような意識でいるかということが肝要だった。なかでも「文学博士」というものの権威はきわめて高く、院生・教員双方とも、新制大学院などで取れるものとは思っていなかった。その権威は、戦後できた教育学博士にも浸透していた。というのも、東大教育学部は文学部から分かれて戦後できた学部で、その上の大学院コースは、教育学・教育心理学など5つの「専攻課程」だったが、それらの課程は他の文学系諸専攻課程とともに、「人文科学研究科」という研究科の中に並存していたからである。文学博士の伝統的権威は、教育学博士にも十分に及んでいるように思われた。ちなみに、教育学研究科が独立したのは1964年のことだった。私の論文提出はその翌々年度だったことになる。
論文審査は当時は1年がかりだった。学位記は1967年10月5日付となっており、「教育学第5号」と記されていた。ただし教育学研究科独立前、人文科学研究科時代に3人の教育学課程博士が出ていた(これも海後教授の奮闘によるものだったが)から、実質的には8人目だったことになる。
審査は無事進んだらしいが、論文の中身に明治期の評議会記録の分析があることについて、最終の教育学研究科委員会で疑問が出たそうである。「評議会の議事録を引用しそれが公刊されるのはまずいのではないか」。審査委員長は「古い時代の記録だからいいでしょう」といったことで何とか切抜けたらしいが、そもそも大学内部史料の閲覧など、望んでもできない時代だった。それを大学院生が見たということ自体、異例のことだった。そういう段取りをつけてくださったのも、海後先生だった。
学位を得て半年後、1968年3月に、東京大学は大紛争の入り口にあった。その後数年間の激動をここに書く必要はあるまい。私は、大学から離れたところであの激動を見る立場にいた。大学の中で苦労を重ねている友人知人たちには申し訳ないような気もしたが、あの時期にもみくちゃにならなかったことは、エゴイスティックな言い方になるが、自分の研究にとって僥倖だったというほかない。加えて、紛争及びその直後あたりから、大学研究あるいは大学史研究の環境が急激に変わって来、私の周りの研究状況も変化した。私もまた、変化の中で、それまでとは違う仕事をすることになった。
第一は、1968年秋から「大学史セミナー」の発足に加わったことである。
東京大学にいた中山茂、広島大学にいた横尾壮英の両氏からの働きかけを受けて野間教育研究所で科学研究費の申請をやるというのが第一のステップだった。この研究会はのちに皆川卓三氏らの協力も得て『大学史研究通信』という不定期刊の機関誌を11号出し、1978年まで続いた。その後は現在の「大学史研究会」になっている。加わった高等教育研究者は枚挙に暇がない。麻生、潮木、天野郁夫、舘昭などの各氏はもちろん、関正夫、喜多村和之、有本章、池端次郎、別府昭郎、仙波克也、安原義仁、荒井克弘、成定薫など広島大学ゆかりの方たちや、今は故人となった科学史の広重徹、法思想史の高柳真一、大学史の中野実など、多くのメンバーが参加した。私について言えば、社会学、科学技術史、法制史、西洋史など多くの他分野の研究者と自由闊達な交流を続けることのできる、かけがえのない機会になった。
第二は、紛争が大きなきっかけになって広島大学大学教育研究センターが生まれたことである。その発足期には、恐らく横尾さんの企画であったろう、大学史研究会の人材(?)が大勢誘われて客員研究員になった。大学・高等教育研究の70年代が始まっていた。
【第6回】 幾つかのこと-次の世代の方たちへ
このシリーズのねらいの一つは「特に若手研究者に『現実的な』高等教育研究への参入方法を示唆する」ことにあるという。これまで書いたことは、私の研究歴から言えばほんの始まりの地点までに過ぎないし、もともと「汎用性」ある方法提示などにはなりそうにない。休学経験や商売体験、テーマへの意地のようなこだわり、妻をはじめとしてまわりにかけた経済的負担など、いわば「私だけの事情」が記述の中心になった。それらは「偶然事」とか「一回性の歴史的事件」としか言いようのないものである。また、およそ自伝的研究史は、どう客観的に書いても、結局は成功談、せいぜい苦労話に過ぎないのではないかとかねて思っていたが、自分で書いてみると、やはりそうなった。上記のねらいを聞くと、やはりたじろいでしまう。
たじろぐ理由はもう一つあって、果たして「若手研究者」にこの道への「参入」を勧めていいだろうか、ということである。
私は、1970年代に入ると、立教大学、東京大学、桜美林大学などで「若手研究者」を幾人も指導する羽目になった。しかし1990年代末に入って教えた桜美林大学大学院生たちを除いて、高等教育や大学問題の専攻を勧める気にはなれなかった。「現実的」に考えると、それで生活してゆけるとはまだまだ思えなかったからである。
紛争の余燼が冷めやらないころ赴任した立教大学では、向こうから飛び込んで高等教育史・大学史研究を志す院生たちが生まれた。だが最も多く大学院生のいた東京大学では、高等教育・大学教育の専攻者は私のゼミからは一人も生まれず、私も勧めなかった。ただし1988年以降の桜美林時代になると、そもそも私が大学史・大学問題専門であることを知った上で大学院に進学してくる人が多かったので、私も安心して高等教育に重点を置いて指導した。
さて「自伝」の欠陥はさておき、紙面(?)を汚した罪もあるので、ここでは「自分はどの点で恵まれていたか」を思い出しながら、次の世代(私にとっては次々世代)の方々に向かって幾つかのことを書いておこう。
1)「失業確実」なテーマを選ぼうとしている若者に、周りの「大人研究者」たちも指導教官も、「忠告」など一切してくれなかった。テーマ選択の自由をア・プリオリに許すという旧帝大の人文系研究者世界の空気が、私の場合大いに幸いしたというべきだろう。
加えて海後先生は、「新制大学院は学位を出す機関である。博士課程に在籍する人は、『自分が3年間で書く論文が博士論文なのだ』という気持ちでいなければならない」と言い続けられた。その点は、指導と催促に容赦なかった。
60年代の博士課程学生のころ、「戦後大学改革研究は、研究助手として「アルバイト」のつもりで書きます。しかし本当は明治期を纏めたいのです」などと開き直って先生に言い、意地になって二つを並行して仕事することができたのも、上記の自由な空気と叱咤激励のおかげである。だがこの空気がどれほど貴重なものだったか分かったのは、ずっと後のことだ。
2)「生活ができない」というのはとりわけ辛かった。にもかかわらず、めげずにやれたのは、意地だけでなく、先の見えない基礎研究のもたらす、充実感があったからである。 「大事なテーマだといつかはみんなわかってくれるに違いない」と自分を慰めたり、「少なくとも俺が生きていたということを証明するためだけにでも、この歴史研究は遺しておかなくてはならない」と自分に言い聞かせたり、日によって思いは揺れた。だが「迷いながらのやりがい」という実感があったからこそ、やっと保ったのだと、これも今気づく。
それにしても業績重視の職場で忙しい仕事に追われている若手の方たちに、あの、「辛い、しかし自分は面白い」という充実感を分かってもらえる条件が、今どきどれほど残されているだろうか。
3)教育史の研究室で育った筆者の立場からすれば、「大学史」研究ではなく「高等教育史」研究を選んでしかるべきだったかもしれない。この二つの領域は、天野郁夫氏がかつて鮮やかに整理されたように (『大学史研究』1992)、テーマの立て方と方法の面で大いに異なる。だが私は、かつても今も、大学史に関心を持ちつづけてきた。 今さら変えられない。
現在(およびそう長くないであろう将来)に関して言うと、現在自分がすべき役割は、「大学アーカイブスをつくりたい」と考えておられる大学にはお手伝いをし、「まともな沿革史をつくろう」と志しておられる大学や学園には講演や示唆を惜しまない、という活動である。
若いころは史料を求めて這いずりまわらざるを得なかった。だが40年後の現在、研究条件は比べようもなく改善されている。大学アーカイブスの普及はその象徴である。それをさらに加速させ、大学史研究の障害、さらには大学改革への障害となるものを打破する作業に参加したい。大学アーカイブスの建設は、大学改革の重要課題たる「大学アイデンティティーの確認と共有」のための、何よりの拠点になる。
4)研究者にとって、どういうテーマを選ぶか、その結果どういう領域(ディシプリン)に踏み込むかということは、誰に相談のしようもないことである。自分がどういう課題を抱え、こだわっているかだけが、それを決める。
次の問題は、研究のプロセスにおける「無駄」「失敗」「猪突」「暴走」「停滞」その他もろもろの試行錯誤を許容し、また研究のブレイクスルーを広い気持ちで待ってくれるような指導者があるか、制度ができているか、ということである。私の場合、これに恵まれた。
目の前に既成の専門領域や「食ってゆけるポスト」が存在すればするほど、研究自体が課題意識抜きに、何とか形をなしてゆく。「通常科学」あるいは「規範科学」としての業績生産・論文排出も何とか続く。条件が整いポストが次々に生まれてきた日本の高等教育研究が、そういうものになって行かないよう、祈るや切である。
高等教育・大学教育・大学史などがマイナー・テーマであった時代は過ぎている。この勢いが強まったのは、ここに書けなかった80年代以降のことになる。
私に即していうと、一般教育学会への参加、立教学院・東京大学・東洋大学等百年史編集への参加、大学教育研究諸センターへの参与、マスメディアと政策側の大学問題への関心の増大とそれへの対応、といったトピックになろう。
大きなステージ転換に絡む文章になるだろう。機会があれば書き継いでみたい。
≪関連参考文献≫
1.稲垣忠彦「『戦後日本の教育改革(全10巻)』(東京大学出版会『UP』346号、2001年8月)
[東大・スタンフォード共同研究プロジェクトと叢書刊行の経緯に関して記された唯 一のドキュメント。『大学教育』出版前後の状況も記されている。]
2.復刻版『大学史研究通信』(日本図書センター、2005年)
[タイプ印刷の原本全11冊に校訂を加えて復刻したもの。 解題のほかに関係者の座談会が付されており、中山茂、上山安敏、潮木守一、天野郁夫、別府昭郎および筆者が回顧を語っている。]
3.横尾壮英・中山茂・皆川卓三・天野郁夫・寺﨑昌男・別府昭郎・斎藤泰雄・成定薫 「大学史研究セミナー25周年記念シンポジウム 大学史研究の回顧と展望」(『大学史研究』9号、1992年10月)
[寺﨑報告へのコメンテーターが天野郁夫氏。高等教育史と大学史の対照について論じている。]
4.喜多村和之(編)HIGHER EDUCATION AND THE STUDENT PROBLEM IN JAPAN: KBS Bibliography of Standard Reference Books for Japanese Studiies withDescriptive Notes(国際文化振興会、1972年)
[大学紛争前後における高等教育研究の状況と変化を展望できる文献目録。編者による解題も研究史の参考になる。]