※山田圭一先生の履歴書につきましては、荒井先生、小林先生のご厚意により、両先生方が以前お書きになった以下のご紹介文を山田圭一先生ご本人の履歴書として掲載させて頂きます。
【第1回】 荒井 克弘先生ご執筆
「山田圭一先生のオリジナリティ」より <再掲>
【第2回】 小林 信一先生ご執筆
「uomo universale」より <再掲>
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【第1回】 荒井 克弘先生ご執筆 「山田圭一先生のオリジナリティ」より
師を語る山田圭一先生のオリジナリティー
『学術月報』Vol.51 No.3(1998年3月)より再掲
荒井 克弘 (現東北大学大学院教育学研究科教授)
最近,山田圭一先生から「雲」の写真をお送りいただいた。朝方の空もあれば夕方の空もあり,青空に広がる壮大な雲もある。退官後の新しいテーマのひとつだと伺っている。
山田先生は,科学技術政策,リサーチ・オン・リサーチなどの新規分野の開拓に尽力される傍ら,セスナ機を駆って世界の山々を飛び,航空山岳写真という新しいジャンルを切り開かれた。出版された山岳写真集は10冊余にのぼり,イタリアでの個展,KOⅢ賞,航空協会賞の受賞などの栄誉にも浴している。20代の頃は東京大学,ゲッチンゲン大学(旧西独)で物理化学の研究に従事され,ゲッチンゲン大学でDr.rer.nat.(理学博士)を,帰国後に東京大学で工学博士を授与された。ドイツ留学前に,ハロゲン化銀の研究で写真学会から技術賞を贈られているが,「これも山岳写真でもらった賞だと誤解されていますね」と苦笑されていたことがある。
1956~1959年のドイツ留学時代には専門の物理化学ばかりでなくハイデッガー哲学にも強い関心をもたれ,ゲッチンゲン大学で博士号を取得したあとはフライブルク大学に移ってもっぱら哲学の勉強をされた。後にまとめられた『科学技術論』にはこのときの蓄積が凝縮されている。科学技術と哲学,それに山岳登山,写真,飛行機はいずれも先生の人生に欠くことのできないものであり,山田先生の発想,学問観,研究方法のすべてに結びついている。「仕事は10年サイクルです。」というのが持論で,実際にその節目ごとに東京大学から東京工大へ,また筑波大学へと移られた。
筆者が,東京工業大学の社会工学科にはじめて山田先生をお訪ねしたのは27年前のことである。当時,同大学の大学院修士課程に在籍し,卒業後は化学系のメーカーに就職するつもりでいた。しかし,大学紛争の余燼もあって,公害・環境問題・大学問題など,新しい社会問題に強く関心が引きつけられてもいた。この時期,大学紛争の決着とともに東京工大を去られた永井道雄先生からも多大の影響をうけていた。山田先生をお訪ねしたのは社会工学科へ転学科するためであった。受け入れてくださるか心配であったが,幸いなことに内諾をいただき,翌年山田研究室の一員となった。
当時の山田研究室はじつに多様な学生たちが集まり,年齢も出身大学も,専門も異なる学生たちが,自由にテーマを選び,夜遅くまで計算機を回したり,研究会を開いたりしていた。夜11時前に研究室の明かりが消えることはほとんどなかったと思う。丁度,シンクタンクが日本に定着しはじめた頃であり,時代風潮としても既成の学問への懐疑が強く,応用社会科学をモチーフとした社会工学は学生たちの眼にはひどく新鮮であった。しかも応用化学から政策科学へみごとに跳躍された山田先生の活躍は期待を膨らませるに充分だったのである。
山田研のゼミは,助手のリード,学生相互のコメントも厳しく,かなり緊張感の漂うものであった。学生たちの議論のおわるまで先生が発言をされることはほとんどなく,最後の最後に2,3の注意を付け加えられた。ゼミがおわると,よく学生を引き連れて近くの食堂へ行かれた。夕食を御馳走になって研究室にもどると,先生がどこからか持参のブランディやウィスキーを出してこられ,飲み会がはじまる。アルコールが入るとゼミで痛めつけられた学生もやや元気を取り戻し,冗談もでてリフレッシュされていった。
卒業研究,修士論文の提出時期が迫って皆が青くなっているときでも,先生の指導は格別かわることなく,あいかわらずニコニコと研究室のようすを眺めておられた。ときおり夜遅くなってから学生たちへの“差し入れ”をもって研究室に現れることもあった。
細かな指示をされることはなかったが,オリジナリティの大切さは繰り返し,繰り返し強調された。そのおかげか,山田研究室からはじつに多くの研究者が育った。しかも,分野の広がりはあきれるほど大きい。数理社会学,科学技術政策,情報科学,社会統計学,都市工学,高等教育等々,人数は多いはずだが,同じ学会で顔を合わせることはほとんどない。不思議なはなしである。
昨年の4月に先生の退官を記念して,同窓生で小さな記念誌をつくった。そのタイトルは「知のフロンティアを飛ぶ」である。新しい研究分野の稜線を駆け抜け,山を愛し,飛行機の好きな先生にもっともふさわしいタイトルと思ったからである。山岳写真につづいて,教会ゴシック建築の本が近々できあがり,つぎは雲の写真集だとうかがっている。いつまでも壮健であられることを願いたい。そういえば,「雲」の講義はまだ伺っていなかった。
山田圭一先生撮影
「北海道南岸」
平成19年9月,成山堂書店発行
『空撮 世界の雲の風景』
より転載
【第2回】 小林 信一 先生ご執筆 「uomo universale」より
uomo universale
『知のフロンティアを飛ぶ-山田圭一先生退官記念』 (1997年4月26日発行)より再掲
小林 信一 (現 筑波大学 大学研究センター 教授)
私は、1978年にはじめて山田圭一先生の授業を受けました。79年に筑波大学第二学群比較文化学類を卒業した後、81年に筑波大学大学院博士課程社会工学研究科に入学し、山田先生の下で学ぶ機会を得ました。その後、山田先生が筑波大学に移られる前にいらっしゃった、そして多くのOBの皆さんの卒業された、東京工業大学社会工学科へ助手として赴任しました。その後、文教大学国際学部(ここにも山田研の関係者がいました)の講師を経て、93年からは電気通信大学の助教授になりましたが、94年には山田先生ご自身も電気通信大学の教授として赴任されました。そして97年の先生の退官に、同じ職場にいる者として立ち会うことになりました。
はじめて山田先生と会ってからもうすぐ20年になりますが、その頃先生は40代半ばでした。自分自身がそのような歳を迎えようとする時期に、再び山田先生とご一緒し、先生をお送りする立場に立つとは、はじめてお会いしたときには想像もしなかった巡りあわせです。とても不思議な縁を感じます。
電気通信大学では、学生向けに「学園だより」という広報誌を発行しています。1996年の新春号では、私が山田先生の紹介記事を書きました。記事は、先生ご自身にも気に入っていただけたようですので、少し長くなりますが、ほとんどそのままの形でここに転載したいと思います。
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山田圭一先生は、昨年度から人文社会科学系列科学技術史担当の教授として本学にいらっしゃいました。山田先生は実に多才で破格な人です。化学、哲学、科学技術史、社会工学、政策科学、高等教育、科学技術政策の専門家であり、アルピニストであり、山岳航空写真家であり、ゴチックの教会建築の写真家であり、エッセイストです。
山田先生は、東大工学部応用化学で向坊隆教授(元東大総長)の指導の下で光化学とくに写真の研究をし、博士課程進学直後(1956年)に、ドイツのゲッチンゲン大学に留学しました。ゲッチンゲン大学では2年くらいで理学博士を取得し、その後哲学の研究のためにフライブルク大学に移りました。
憧れのハイデッガー先生(Martin Heidegger、1889-1976)はすでにフライブルク大学を退職していましたが、先生が親日家であると同時に登山という共通の趣味があったことから、山田先生はハイデッガー先生のお宅を訪れたこともあるそうです。先生は、ハイデッガー先生から署名入りの論文と手紙をいくつかもらっています。私もそれらをいくつか見せていただきましたが、哲学の専門の先生方もときどき見にいらっしゃってました。実は、山田先生は極めつきの悪筆なのですが、ハイデッガー先生の手紙を見せていただいたときに、二人の字があまりにそっくりなのでおどろきました。横文字は言うに及ばず、もしハイデッガー先生がカナや漢字を書くとしたらこんなだろうと思わせるほどでした。山田先生が黒板に読みにくい字を書いていたら、それはハイデッガー先生の字だと思ってください。
哲学の研究は志半ばで、東大に戻るように言われ1959年に帰国しました。東大では工学部に所属しながら、技術論をまとめあげました。またこの時期には、向坊先生の協力者として政策科学の分野の仕事にも携わるようになります。最近でこそ、大学の教育研究の改革が話題になりますが、山田先生はすでにこの時期に、工学教育や研究体制の改革に関する詳細な提案をまとめ上げたチームで中心になって仕事をしました。
1968年には新設の東工大社会工学科に移り、政策科学や科学技術政策の研究に携わるようになります。科学技術の研究活動や組織にはライフサイクルがあるという、最近では一般的になった考え方を打ち出し実証的に分析した仕事は、この時期の成果です。この考え方は、わが国の科学技術政策において必ず参照される基本的な考え方として、今も生き続けています。また、現在ではソフトな対象を扱うソフト系科学技術というのは当たり前になりつつありますが、1970年代はじめにハードを対象とする科学技術に対してソフト・サイエンス、ソフト・テクノロジーが提唱されるについても山田先生の多大な功績がありました。
科学技術にライフサイクルがあり、研究者が創造的な仕事をするためには仕事場を十年程度で変えるべきだと主張された山田先生は、自らの主張を実践し、1977年に筑波大学に移りました。筑波大学では、社会工学系長、大学研究センター長(初代)、第三学群長などの管理職の仕事をのべ十年間も務めたためもあって、不本意にも17年ほど在籍し、ようやく電通大に移ったという次第です。
山田先生にはこうした学問上の業績以上に著名な(?)業績があります。先生は山岳航空写真家として、世界の主要な山岳地帯を系統的に撮影し続けてきました。先生が出版された本のうち10冊近くは、山岳航空写真集です。航空写真といっても、山の上から俯瞰して撮影するのではなく、谷間に入り込んで至近距離から山を見上げるように飛ぶ軽飛行機から撮影するのです。酸素マスクをして、窓は開け放し、氷点下の中で、ときに乱気流の中で撮影するといいます。一緒に飛んだパイロットの中には、その後飛行中に遭難した方も多いと聞きます。これだけのリスクで撮った写真を見て、世界の登山家が多くの新たな登山ルートを開拓したといいます。また、1989年にはイタリアの国立山岳博物館で個展が開催され、132点の作品が永久保存されています。
空撮は山に止まらず、東京などの都市の上も飛び続けており、電通大の航空写真も撮影しています。時々研究費を使ってセスナをチャーターされています。遊び半ばのことにけしからんと思われるかもしれませんが、都市や大学キャンパスなどの変化の記録としてはやはり貴重なもので、国際交通安全学会の学会賞を受賞するなど、その業績は広く認められているところです。
写真といえば、ゴチックの大聖堂の写真を長年にわたって撮り続けていらっしゃいます。中世のハイテクともいえるゴチックの大聖堂は、名もない民衆が、ただ神に近づこうとして、長い年月をかけて、ときには幾世代にもわたって、高く、高く聳える尖塔を築いたものです。現代の科学技術の中に聳える中世の尖塔というコントラストに先生は何を見ているのか、まもなく本が出版されるそうです。
また、先生はこうした経験をエッセイに記してきました。私も学生時代から先生のエッセイを読んできましたが、多彩な経験に基づくリアルで、気の利いた話です。山田先生は生粋の江戸っ子なのですが、エッセイの言葉遣いには、先生のそんな一面も垣間見えます。そしてここでも、日本エッセイストクラブの選ぶベスト・エッセイ集(年刊)に、二度ほど収録されています。
このように、山田先生は、化学、哲学、科学技術史、社会工学、政策科学、高等教育、科学技術政策の専門家であり、アルピニストであり、山岳航空写真家であり、ゴチックの教会建築の写真家であり、エッセイストであり、しかし、山田圭一という一人の人間なのです。私は、先生の中にuomo universale(ウォモ・ウニヴェルサーレ、ルネッサンス的な普遍人)を見続けてきました。
先生は多くの分野で活躍されていますが、そればバラバラ、別々のことではなく、統一されたひとつのことなのだと思います。極めて狭い領域の中に籠って、自分が研究しているごく小さな部分については実によく知っているが、その外にあるものは科学技術のみならず一切のことを知らない、それを美徳とし、専門以外のことは口出しをしないことが科学技術者の禁欲であると考える現代の科学技術者像は、実に錯覚であります。科学技術のあり方を追求してきた先生にとっては、uomo universaleであらんとすることも、その主張のひとつであろうと理解しています。
私は山田先生の最後の弟子を自認していますが、先生は直接間接に非常に多くの優れた研究者を育てられています。しかも、一つの分野だけでなく、実に多様な分野の研究者を育てられています。先生は、学生に何も指示しません。研究テーマを指示するわけでもなく、論文を書くのも学生の勝手。私自身、先生の下で研究生活を開始しましたが、指導らしい指導は受けていません。しかし、先生の周囲にはいつも多くのチャンスが転がっていました。学生たちは集まり、巣立っていきました。
山田圭一先生撮影
「エベレスト南西壁」
東京工業大学・筑波大学山田研究室
97年同窓会実行委員会
( 1997年4月26日)発行,
『知のフロンティアを飛ぶ
-山田圭一先生退官記念』
より転載