【第1回】 生い立ち
【第2回】 大学・大学院時代
【第3回】 高等教育研究との出会い
【第4回】 東京大学から財務センターへ
【第5回】 次世代の研究者に
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【第1回】 生い立ち
私が生まれ育ったのは神奈川県の西のはし、静岡県との県境に近い真鶴という、人口6千ほどの港町である。地図を見ると、相模湾の西に小さな岬が突き出している。その岬に抱かれた町である。1936年生まれだから、敗戦のときは小学校4年生。戦中・戦後の一番混乱していた時代である。勉強した思い出はまったくない。親も子も、その日その日を、どう凌いでいくかで精一杯で、勉強どころではなかった。自分がいつか、大学生になるなど思っても見なかったのである。
私の父は、典型的な明治生まれの苦学少年で、高等小学校を卒業して上京、中学校に入学したり、鉄道教習所に入ったりしたようだが、母(それも義母一人子一人の家庭では続かず、挫折して新聞社の印刷工になり、そこでマルクス青年になってやがて失職、郷里に戻って魚関係の商売をしていた。といっても商売不熱心、実際には助産婦の資格をとって開業していた妻、つまり私の母に生計をおんぶしていた。子どもは5人、私は次男である。夢を果たせなかったマルクス崩れの父は、読書に憂さを晴らしていたのだろう、田舎の貧乏人の陋屋には珍しく、壁は左翼系の思想書や文学書を中心に、本(といっても今考えてみれば大した量ではないが)で埋まっていた。日本文学や世界文学の円本とともに、マルクスやブハーリン、河上肇、さらには小林多喜二、徳永直などという本の背表紙を眺め、時にはページをめくって少年時代をすごしたわけである。
中学校は新制の2期生である。ただ進学したのは町立ではなく、小田原にあった私立の旧制中学校が母体になった、新制高校の中等部である。志を果たせなかった父は、貧乏人のくせに子どもの教育には熱心で、兄を県立小田原高校にやり、私を私立中学に入れたのである。小学校時代に可愛がってくれた先生が、その中学校に移っており、熱心に入学を勧めてくれたこともあずかっていた。昭和23年のことで、私立中学には小田原だけでなく、広い地域から生徒が集まっていた。しかも疎開してきていた、東京生まれの生徒も多かったから、漁師町しか知らない私には、別世界のように思えた。
中学校を終えた後、兄と同じ小田原高校に進学した。小田原は、後北条氏の城下町として知られる県西の小都市だが、大都市に見えたものだ。県立の高校が4校、それに私立高校2校が集まっていたが、大学も短大もない。大学の建物を始めて目にしたのは、高校3年生になって、模擬試験を受けに上京し、会場である東京大学の本郷キャンパスに行ったときである。その次に訪れたのは一橋大学の、国立キャンパス。いかめしい東大と瀟洒な一橋という、両者の建物の違いを強く印象付けられたことを思い出す。
中学時代も大学進学など考えたこともなく、貧しいなりに映画を見たり、小説を読んだり、泳いだりと勉強とは無縁の生活を送っていたが、高校に進学するとさすがに大学進学をどうするか、考えざるを得なくなった。小田原高校は当時、県下有数の進学校で、毎年20名前後の東大合格者を出していた。小田原を中心とした広い地域の中学の成績上位者が集まり、大半が大学に進学する。模擬テストが頻繁に行われ、科目別に成績上位者が貼り出される。優等生たちは、東大進学を目指すのが当たり前という高校である。勉強不熱心のまま、その高校に入れてもらった私も、一年生の終わり頃には進学の問題を考えざるを得なくなった。ショックだったのは、学年末に行われた英語の能力別編成目的の試験で、最下位のクラス行きになったことである。二歳上の兄は、進学を断念して就職を選んだが、弟を何とかしてやりたいと思い、父も金もないのに、見果てぬ夢を息子に託したいと考えているようだった。ただし、進学は条件つきで、大学は国立でなければだめ、受験は一回だけ、つまり浪人はできない、そして学費の送金はなし。これだけ条件をつけられると、なにくそという気にもなる。こうして受験勉強せざるを得なくなり、2年生の夏ごろから発奮して勉強を始め、何とか合格したのが一橋大学の経済学部である。
【第2回】 大学・大学院時代
なぜ一橋だったのか。東大、東大と騒いでいる優等生が嫌いだから、東大も嫌い。全くの文系人間で理数系が弱いから、東大はだめ。消極的理由はいろいろあるが、受験前に見たキャンパスの違いも大きかったかもしれない。それに勉強するなら社会科学、社会科学なら経済学、経済学なら一橋という思い込み的な、その意味で積極的な理由もあった。
入学してみると、選択が間違っていなかったことを確信した。最初の2年、「前期」と呼ばれる小平の学寮で暮らしたが、なんといっても自由だったからである。
入学したのは1954年、まだ旧制の「大学予科」の雰囲気がたっぷり残っていた。マルクス主義・学生運動の全盛期だったが、一橋には近経かマル経か、講座派か労農派か、運動か勉強か、革命か学問かといった、二者択一を迫るようなイデオロギーの支配はなかった。あったのかもしれないが、平凡な学生には無縁であった。しかし、マルクス主義の文献、といっても現状分析や歴史分析は魅力的で、よく読んだ。それらを通じて経済学を中心とした社会科学の広がりを実感させられたものである。
それに、この自称「社会科学の殿堂」自体、商・経・法・社の四学部に分かれていても、何を学ぶかに学部の壁はなかった。重要なのはゼミと呼ばれる、一橋独自の制度だが、私の属していた山中篤太郎先生のゼミには、経済・社会の両学部の学生がゼミテンとして参加していた。その後このゼミと講座制の違いを痛感させられ、東大を相対化して見る、一つの視点を与えられた。
社会科学の匂いを嗅いだくらいで、体系的にも集中的にも勉強しないうちに4年生になって、また進路の問題に直面することになった。気がついてみると、さすがはビジネスエリートの養成機関、周りは昨日までのマルクス、ケインズに代わって、銀行がいいか、商社にするかといった話ばかり。家族も親族もビジネスの世界とは無縁の田舎育ちの私は、どうしたらよいか迷っているうちに、秋を迎えてしまった。研究者の道を考えなかったわけではないが、奨学金とバイトで何とか学費をやりくりして4年間をすごした後、さらに何年かかるのか、なれるかどうかも分らないその道に踏み込む気には、とうていなれなかった。結局メシを食うために、行き当たりばったりにメーカーに就職することになった。現在の富士通である。
就職してみると仕事は面白いが給料は安く、自由な時間がほとんど持てないことが分ってきた。どうせ食うや食わずなら、自由なほうがいい。そのほかにもいろいろな思いがあって、就職から一年もたたない1959年3月に、東京大学教育学部の学士入学試験を受けることにした。高校の教師になろうというのが、最初の目的だった。そしてどういうめぐり合わせか、進学先として教育社会学コースを選び、清水義弘先生と出合ったのが、私の研究者人生の始まりになる。
嫌っていた東京大学だが、入学してみると、一橋とはまったく違ったタイプの大学であることを知らされた。今風に言えば、大学文化の違いである。東大教育学部はなによりも研究者養成の場であり、同級生の多くが。口には出さなくても研究者志望であるらしい。それに貧乏な大学院生、結婚して妻に食わせてもらっている研究者の卵が、ゴロゴロいる。高校教師には簡単になれないが、院生のほうは何とかなれそうだということも分ってきて、今度は余り抵抗なく進学し,研究者への途を踏み出すことになった。イデオロギーの支配の強い教育学部で、教育社会学研究室だけは異なる雰囲気の、研究の面で自由で開放的な空間であったことも幸いしたと、いまになって思う。
研究室には、麻生誠さん、潮木守一さんなど、高等教育に関心を持つ先輩が何人もいた。清水先生自身、高等教育を研究テーマの一つにしていた。同学年の菊池城司さんもそうだった。学歴・学閥・入試・エリート・人材養成・社会移動・教育計画・近代化などなど、この時期の教育社会学の研究課題の多くが、高等教育と関係してもいた。永井道雄・新堀通也など、気鋭の教育社会学者にも、高等教育に関心を持つ先生方がおられた。しかし私は、最初から高等教育を研究テーマにしていたわけではない。
修士論文のテーマに選んだのは、工業化と人材、とくに技術者養成の問題で、分析の力点は中等教育のほうにあったからである。1965年に「教育社会学研究」に投稿した最初の学術論文、研究者としてのいわばデビュー論文は、高等教育レベルの技術者養成に関する論文だったことは、事実である。しかし、他の教育社会学の研究者同様、私にとって高等教育はあくまでも、それ自体が研究の対象であるというより、たとえば社会移動や学歴、入学試験などの問題を考察する際の、重要ではあるが一つの与件に過ぎなかった。博士課程の3年間、私が清水先生の下で専ら従事していたのは、企業内訓練や、流入青少年問題などに関わる実態調査と報告書作りであった。高等教育を研究テーマの一つにするようになったのは、1966年に大学院を終了し、国立教育研究所の研究員になってからである。
その国研で私が属していたのは、教育計画研究室である。中等・高等教育の進学需要の予測と、それに対応するための計画策定が主要な研究課題であったが、ここでも中心は「全入運動」が展開され、進学者数と進学率の急上昇が予想された高等学校の、府県レベルの計画の問題にあった。高等教育についても、ようやくマス化の進行が問題になろうとしていたが、それが教育計画の対象として重要性を増すのはさらに後の時期である。私にとっての高等教育研究の時代は、1970年前後、国研から名古屋大学に移る頃にやってきた。
【第3回】 高等教育研究との出会い
研究者として何をテーマに選ぶかには、偶然性が付きまとっている。事後的にはどのようにでも説明がつくが、その時点では偶然にというほかはない。その偶然がいくつも重なった。教育社会学の研究者としたさまざまな問題に関心を持ち、何を中心的なテーマにするのか、博士論文の構想も立っていない私を、高等教育研究のほうに押しやる、いくつもの偶発的な力が、1970年前後の時期に重なり合って、働いていたことが、いま振り返ってみてよくわかる。
重要なのはおそらく、時代の提起する課題と人間関係である。70年前後はなによりも、大学改革の戦後最初の高揚期であった。私は当時まだ、国立教育研究所に、つまり大学紛争の渦中から一歩はなれたところにおり、改革の問題を外から客観的に見ていた。それが高等教育研究者にとって、幸・不幸のどちらだったかは分らない。しかし、そのことが
持続的な高等教育研究の一つの条件となったのではないかと、今になって思う。
それはともかく、大学紛争はおびただしい数の大学ものの刊行をもたらしたが、紛争が終結すると、潮が引くようにその数は激減した。残ったのは提起された改革の課題と、地道な研究の必要性、そしてそれに取り組もうとする一握りの研究者たちと、いくつかの組織である。日本の本格的な高等教育研究は、紛争の後に始まったといってよい。
その70年前後の時代をいま振り返って、改めて一つの新しい研究領域の立ち上がりの混沌とした、しかし刺激と活気に満ちた模索の時代に、しかも教育社会学の研究者として立ち会ったことの幸せを、感謝せずにはいられない。何に関心を持とうが、何を研究テーマに選ぼうが、誰と交流し、研究プロジェクトを組もうが、制約を感じることはほとんどなかったからである。研究には自由な、学問や組織、さらには世代の壁をこえた交流が不可欠であることを、痛感させられる。
私の高等教育研究の人脈は、そのほとんどが、このときに作られたものであり、いまもさまざまな形で続いている。あまりに多いので、名前を挙げるのは差し控えさせていただくが、私の研究者人生も研究成果も、そうした人たちとのネットワークなしにはありえなかったといってよい。組織のほうは、少ないので名前を挙げれば大学史研究会、広島大学高等教育研究センター、IDE(民主教育協会・高等教育研究所)、マージナルマン会などがそれである。もちろん、国研・名古屋大学、その後の東京大学・国立大学財務経営センターなども、これに入る。これらの組織では、研究を含めてさまざまな仕事をさせてもらい、いまもつながりを持っている。研究の課題も人間関係も、これらの組織を中心に作られてきたものに他ならない。
1970年後の時期に、具体的に何をしてきたのか。活字になった論文をながめてみると、「現代もの」もあるが、「歴史もの」のほうが多い。国研の『日本近代教育百年史』の編纂事業に関わって、旧制専門学校の通史的な分析を引き受けていたからである。高等教育の研究を、専門学校という、「傍系」の学校群を中心にはじめたことの幸運も、思わずにはいられない。そのおかけで、「正系」の帝国大学や高等学校だけ、「官学」だけをみていたのでは気づかない研究上の視点を、沢山教えられたからである。考えてみれば 一橋もまた、実業専門学校として出発した「傍系」の学校であった。もちろん偶然だろうが、意外にそのことがテーマ選択に潜在意識として働いていたのかも知れない。
1971年に、私は名古屋大学に移り比較教育学を担当することになった。74年から一年間イェール大学のバートン・クラーク教授の下で、比較高等研究グループに加わったり、マーチン・トロウ教授の知遇を得て、喜多村和之さんと、「エリート・マス・ユニバーサル」で知られる『高学歴社会の大学』を、また潮木さんとジョセフ・ベンデビッドの『科学の社会学』を、それぞれ訳出したりと、比較高等教育研究に目を開かれたのは名古屋時代である。
私の研究上のもっとも良きパートナーである喜多村さんとの最初の出会いは70年代の初めである。歴史史研究に目を開かせてくれたのが、寺崎昌男さんや中山茂さんだとすれば、比較研究の重要性に気づかせてくれたのは、潮木さん、喜多村さんであり、クラーク教授やトロウ教授である。「比較もの」が研究テーマの一つに加わったのは、この名古屋時代であった。
【第4回】 東京大学から財務センターへ
1979年、東京大学の教育社会学研究室に移ることになった。沢山の院生を抱える研究室である。自分に関心があるからといって高等教育研究だけをテーマにするわけにはいかない。ゼミでも、共同研究でも、むしろ高等教育以外の、より多くの院生たちが関心を持てるようなテーマを選ぶ必要がある。選抜・試験・学歴などの問題に関わる教育社会学的、教育社会的な研究、それに学習社会論などが、東大での17年間に取り上げた主要な研究主題であった。書物として形になったものからすると、教育の社会史的な研究が中心だったということになるだろう。
しかし同時に高等教育についても、「現代もの」の雑文を含めて、書いたものは少なくない。IDEの『現代の高等教育』誌の編集や、高等教育研究所の諸プロジェクトに関わっていたので、この時期、「現代もの」が著しく多くなった。依頼されて時論的なものを書く機会も増えた。しかし研究面で言えば、高等教育関係の力点は、これまで書きためてきたものを整理し、再構成して著書として刊行することのほうにあったように思う。
国研から名古屋大学の時代に書いた、高等教育に関する論文はかなりの量に上ったが、それを本として出してくれる出版社がなかった。紛争後、一転して大学ものは売れない時代がやってきたからである。私は40代になるまで、著書のない研究者であった。その売れそうにない本を出してくれたのは、玉川大学出版部の関野利之さんと、東京大学出版会の佐藤修さんの、二人の編集者である。本は著者だけではできない。研究者にとって良き編集者との出会いがいかに重要か、その後の長い付き合いを振り返りながら痛感している。
東京大学に移ってから5年目だったか、年齢に応じて教授になり、それからはだんだん学部や大学の運営に関わることが多くなった。さまざまな全学委員会の委員になり、評議員になり、最後の2年間は学部長・研究科長を勤めた。その前に学部の改革委員会の長をさせられた。学外では政府、とくに文部省の大学関連の委員会や審議会の委員職にもつくことになった。1993年には大学審議会の委員に任命され、それが中教審の大学分科会に変わった後も、委員を続けている。つまり、高等教育は研究の対象であると同時に実践の問題になったのである。
それが、私の研究にどのような影響を及ぼしているのか、自分ではよく分からない。研究者としての立場を守りつつ実践に、とりわけ改革の問題に関わるのはたやすいことではない。緊張や葛藤を強いられることも多い。しかし、研究者としてそこから学ぶものも少なくない。書くものにも、それがさまざまな形で投影されているはずである。大学改革に関わる一般書、といっても大学関係者を読者に想定した本を、何冊も出すようになったのは、そのひとつの表れであろう。
1996年に東大を定年退職し、国立学校財務センター(現国立大学財務・経営センター)で、10年間という、思いがけず長い時間をすごすことになった。その小さな研究部で、後半は研究部長として関わったのは、国立大学の法人化を中心とした、実践的な大学改革の問題である。70年代前後の改革の波のたかまりと退潮の後、30年近くを経過して新しい世紀を迎える頃に、突如、いわば「外圧」による大学改革の大嵐がやってきたのである。財務センターと中教審大学分科会、それにIDEと、否応なく改革のフロンティアと向き合わざるを得なくなった。そこで一人の研究者として何を考え、何をしてきたかは、書いてきた論文や雑文の集積に、あからさまに示されているはずである。高等教育の研究は、実践的な課題と切り離すことができない。研究者としての蓄積や能力が、赤裸々に試される場であることを、思い知らされてきたというのが、正直なところである。
【第5回】 次世代の研究者に
古希を越えて研究の第一線から離れたいま、改めて、社会科学の、とくに教育社会学や高等教育の研究者にとって、無駄な経験などというものはないという思いをかみしめている。私は2つの大学・学部を卒業し、経済学・教育学・社会学という3つの学問を学び、企業を含めて5つの組織に属して仕事をし、給料をもらってきた。他にも学会や研究会、大学団体、それに個別の大学等にもさまざまなかかわりを持ってきた。私の研究活動のシーズもエネルギーも、多くはそうした経験のなかから引き出されたものである。
経験のなかから、研究のシーズやエネルギーを引き出すにあたって、私が常にこだわり重視してきたのは、単純化して言えば、差異・違いではなかったかと思う。オーソドキシーとされるものへの、違和感とでもいったらいいのだろうか。それは優等生ではなく、したがって東京大学が嫌いで、一橋などという(少なくとも高校の同級生の間で)マイナーな大学に進学し、研究者への途も回り道し、不人気になった頃に高等教育の問題に関心を持ち、専門学校などという戦後の学制改革で失われた「傍系」の学校を研究対象に選び、研究者としてマージナルなところに身を置いてきた(と自分では思っている)ところから、生まれてきたものかもしれない。官学と私学、大学と専門学校、日本とアメリカ、中央と地方、エリートとマス、講座制と学科目制・・・差異はいたるところに転がっており、比較の軸のマイナーな側に身を置けば、それまで見えなかったものが見えてくる。違和感は知的好奇心の、もっとも重要な源泉ではないかと思う。経験は、その意味で無駄ではなかったのである。
ただ、経験はそれだけでは研究の源泉になりえない。それはつねに、研究者としての視点から対象化され、相対化されねばならない。そしてそのためには、学問及び訓練・陶冶という意味でのディシプリンが必要になる。
「自分自身の世界を、それももっとも近しい馴れ親しんだ部分を研究対象とする社会学者は、民族学者のように、見知らぬ異国のものを身近に飼い馴らすのではなく、こういう言い方をしてもよいなら、馴れ親しんだものを、見知らぬ異国のものにするのでなくてはならない」というピエール・ブルデューの言葉(『ホモ・アカデミクス』)がある。彼のいう「馴れ親しんだもの」とは、私たちが住み、暮らしている大学・高等教育の世界である。それを「見知らぬ異国のものにする」のが、社会学者に限らず、高等教育研究者の役割だというのである。どれほど深く実践に関わろうと、研究者として忘れてはならないのは、その視点であろう。
高等教育学会も『高等教育研究』もなかった時代には、高等教育に研究関心を持つ人たちは、問題に取り組む自らのディシプリンと、何がしかの理論的武器をもっていたし、持たざるを得なかった。高等教育研究は、多様な学問的出自の人たちが、多様な問題意識を抱いて集まってくる一種のアゴラであり、そこでの集まりはまさに緊張をはらんだ、喧々諤々の、ディシプリン同士の戦いの場であり、シンポジオンであった。
ところがいまは高等教育そのものが、独立の研究領域となり、高等教育の専門研究者が現れ、高等教育の現実的で実践的な課題に取り組むようになっている。先頃の高等教育学会のシンポで指摘したことだが、研究はマクロ・ミドル・ミクロの三層に広がり、研究の主要なフィールドは、マクロからミドル・ミクロへと移行しつつある。これらは、私のような古い世代が知らなかった、若い世代が直面している困難な、高等教育研究の世界である。杯を交わしながら、改革の現実ではなく必要性を語っていればよかった、アゴラとシンポジオンの時代は、誇張して言えば「神代」のようにすら見える。若い高等教育研究者の、直面している困難の大きさに、思いをいたさざるを得ない。
高等教育の研究にとって、経験や実践の重要性がこれまで以上に増してきている。そして経験や実践は、なによりも年齢とキャリアの関数である。ある役割や地位について初めて見えてくるものが、とりわけ高等教育研究の領域では多い。と同時に、その経験や実践はディシプリンに基づき、理論的な手続きにより相対化され、対象化されて始めて研究者にとって意味のあるもの、研究の源泉となる。
若い時代には経験をつみ実践を重ねると同時に、或いはそれ以上に、なんであれディシプリンを身につけ、理論的な格闘を積み重ねていく必要がある。私自身、振り返ってみれば変転の多い、キャリア設計などというものからはほど遠い、ディシプリンを渡り歩き、行き当たりばったりの研究者生活を送ってきただけに、その点に悔いを残していないといえば嘘になる。
いずれにせよ、研究者の嘘偽りのない履歴書は、その時々に書き残してきた論文や雑文の数々である。事後的な正当化はいくらでも可能だが、過去の論文や雑文を書き換えることはできない。私の履歴書に、これ以上の関心をお持ちであれば、そのいくつかでも手に取っていただきたい。東京大学教授などというオーソドキシーの権化のように見えるだろう一人の、しかし実際には(主観的には)常にマージナルなところに身を置いてきた(置こうとしてきた)研究者の真実が、より透明性を持って見えてくるはずである。
< 完 >