![]() |
![]() |
東京大学・桜美林大学・立教大学 名誉教授
寺﨑 昌男
曙光がさしたころ
寺﨑 昌男 (東京大学・桜美林大学・立教大学 名誉教授)
「広島大学に大学教育を研究するセンターができるらしい」――これがどれほど思いがけないニュースだったか、今の方々には想像できない
と思います。教育を行う大学は目の前にあり自分たちも授業や実験指導をしている。だがそれを「研究する」ことなどできるのか。
しかもそのためのセンターが伝統的な国立大学につくられる。文部省も認めているらしい。意外さは二重三重のものでした。でも1972年には
発足したのです。
センターと私たちとを繋いだのは、当時広大教育学部にいた横尾壮英さんでした。「私たち」とは、大学史研究セミナーという研究会の仲間
たちのことです。東京大学の中山茂、神奈川県立看護短期大学の皆川卓三、名古屋大学の潮木守一、大阪大学の麻生誠、国立教育研究所の
天野郁夫、京都大学の上山安敏、それに横尾さんや最初の助教授として着任していた喜多村和之氏もメンバーでした。私は財団法人野間教育
研究所に勤務していました。
上記のメンバーに共通していたのは、科学史、教育史・教育社会学、法学などの領域で大学史研究を手掛かりに伝統的ディシプリンを超えて
進もうという活力でした。横尾さんは、新センタ-の知的エネルギーとしてこの活力に着目したのだと思います。上記のメンバーはほとんど
みなセンターの客員研究員に依嘱されました。
そういえば客員研究員という言葉もユニ―クでした。それ以前にも客員教授という教職名はあったかもしれませんが、研究所職員に「客員」
を冠する例はありませんでした。やはり横尾さんのアイデアだったのではないでしょうか。横尾さんはまた学術振興会にも働きかけて、私が
発足直後のセンターに流動研究員として滞在できるように手配してくれました。おかげで1973年秋から74年春まで広島に滞在して、東千田
キャンパスの図書館3階に置かれたセンターに連日通い、あらゆる活動に参与することができました。初代教授関正夫氏と昵懇の間柄になれた
のも、その半年間のおかげでした。
流動研究員のころ、少しはお役に立ったかと思うのは、研究面では、1973年3月創刊の『大学論集』第1集に「講座制の歴史的研究序説」を
書き、巻頭論文に載せてもらったことでした。横尾さんに言わせると「これまでも研究はあるぞということを内外に示すことができた」こと
でした。また流動研究員期を利用して『大学院・学位制度に関する資料集』(「大学研究ノート」第19号、1975年3月)を編集しましたが、
当時は類似の資料集がなかったため、朝日新聞が報じると全国から注文が相次いだと聞きました。
次いで飯島宗一総長との交流があります。広島滞在中幾度も懇談の機会に招かれました。氏は当時日本学術会議で国立大学設置問題、教員
養成制度問題等に直面しておられました。その意見書作りに小生や喜多村さんも参画したのです。氏の研究の一部は「大学の設置形態について
―日本の国立大学を中心に」(『大学論集』第2集)として残されています。
創立の頃の思い出は、機構のことではなくどうしても「人」のことになります。卒寿を目前にした老耄の故としてお見逃し下さい。
50周年おめでとうございました。