広島大学・東北大学 名誉教授
羽田 貴史
ポスト50周年への期待
羽田 貴史 (広島大学・東北大学 名誉教授)
センターが創設50年を迎える。「もう」とみるか「まだ」とみるかは、人によって違うだろうが、私には「吾日暮塗遠、吾故倒行而逆二施之
一」という思いである。在職したのは、1994年4月から2006年3月までの13年間で、大状況では、橋本行革に始まる国立大学法人化
の具体化、大学評価の制度化が進み、センターは、関・有本・茂里のセンター長のもとで、全国センター等協議会の発足、高等教育開発専攻の
設置、21世紀COEプログラムへの取り組みが進んだ時期だった。あれからすでに20年がたとうとしているが、この間の日本の政治と高等
教育の変化は激しい。もちろん良い変化もあるが、高等教育において、どこに良い変化が見られるか疑わしい。私は、現在、地方国立大学の
経営協議会委員と大都市の大規模私立大学の評価委員をしているが、地方国立大学の置かれている厳しい環境と、その支えにならない政策の
貧困さを対比して痛感せざるを得ない。国立大学の自主性・自立性を拡大するといううたい文句で始まった国立大学法人化は、いつのまにか
国の定めた目標に従って評価する制度になってしまった。特定目的財源で雇用される任期付き教員が増加し、不安定な初期キャリアは、長期的
な視点で基礎研究を重視するマインドを奪ってしまった。教育の成果を評価することの難しさが国を問わず指摘されていたのに、いつの
間にか、コンテピンシーと称して、学生のアンケート調査によって大学教育の成果を測り、どのような知識を学んだかを問題にすることが
少なくなった。構造化され、確実な知識を持たない限り、知識の転移も何もあったものではない。勤めた研究大学の物理学の教授が、
「10年前に比べて6、7割しか学生が分かっていない」と深刻な顔をしていた。試験問題のレベルが異なっていないのにできないのである。
どうしてこうなってしまい、また、どうしてこうした問題が高等教育関係者や研究者の間で問題にならないのか。また、「大学改革」と
称する様々な政策が打ち出されて20年になるのに、それが成果を上げたという話は一向聞かない。20年たって成果が上がらないなら、それは
「失敗」であり、根本的に見直すべきだろう。
そうした話がでないのは、「改革」を進める側に高等教育研究者もかなり加担し、批判する状況にないからではないだろうか。最近、特に
官邸主導で大学や高等教育の独自性を理解しない政策が打ち出されているが、しかし、元凶をたどれば、「改革」というその改革は、大学や
大学教員の自主的・内発的な改革ではなく、政府審議会のトレンドの具体化を指す意味で使っていることに由来する。その審議会に高等教育
研究者が参画してなにがしかの知見を提供し、そのトレンドに沿った研究を進め、データを提供する。研究倫理の世界では、これを利益相反
状態にあるというのだが、研究倫理も高等教育研究が遅れている分野である。
そして、そこに発するトレンドは、大学教育の現場にある教職員の感覚や知恵・専門性を活かすものではなく(それは「大学性悪説」に
よって退けられているようである)、大量学生調査によって得られたデータである。大学教員の専門性によらず、だれでもわかる数値(GPA、
学習時間)によって大学教育を論じるのだから、特段、大学教育を評価し、政策立案するのは文科省である必要はなく、内閣府など膨大な
データを収集・分析する官庁が仕切ってもおかしくない。近年、官邸主導で政策形成が進むのは、自らを不要とするトレンドを創り出した高等
教育研究者の努力の成果とも言えるだろう。
どんな分野でも、専門分化が進めば、細分化し、それぞれのテーマや方法ごとでのサイロ化(タコつぼ化とも言った)が進み、全体構造が
分かりにくくなるのが、性(さが)であり法則というものである。同時に、それを乗り越える努力をするのも研究者の性である。この組織的
活動は、センター以外にはありえないのだが、残念ながら生きている間には、その努力の結果を見ることはできないかもしれない。