-第3話 「かざす桜は学びのしるべ」-

2009年6月

皆さんの母校の校章には桜がアレンジされていませんでしたか?
詰め襟学生服の既成金ボタンも、たいていは桜花のデザインです。
今回は桜を校章のモチーフにした大学をご紹介しましょう。

「紅萌ゆる丘の花」

旧制高等学校から校章話を始めれば、代表的なのが第三高等学校(京都)。

図1 三高校章

図1 第三高等学校

第一高等学校(東京)のよきライバルであり、全国の旧制中学校生徒の憧れの的だった名門中の名門。
桜の名所あまたの京都にふさわしく、校章も桜の輪郭に「三」の文字(図1)
三高にあやかってこの校章を模した旧制中学校も多々あるようです。
雄々しく掲げる幟(のぼり)は、一高が白地の「柏葉旗」ならば、三高は深紅の「桜章旗」。「赤旗」とも呼ばれます。
両校の雌雄を決する対抗戦では紅白の幟が乱立し、その様を源平戦にも見立てたそうな。
桜と深紅のみやびな取り合わせとは裏腹に、応援での熱狂ぶりや校風の蛮カラぶりは極めつきだったとか。
制帽白線は旧制高校の代名詞でもありますが、通常二本線のところ三高は三本。

かの有名な「紅萌ゆる丘の花」は三高の逍遥歌。
吉田山遊歩道の南側入り口には三高の校章を彫り込んだ道標があり、山頂近くには「紅萌ゆる丘の花」の歌碑があります。
東一条通をはさんで京大正門と向かい合う吉田南構内(旧三高敷地)の門は三高当時のもの。
門衛所ととともに文化庁の登録有形文化財です。

「朝日に匂ふ 山桜花」

学習院も桜の校章の代表格。
学習院は、弘化4 (1847) 年に京都御所(御苑)内で開講したお公家衆のための学問所を淵源とします。
桜の院章は、国学者本居宣長の歌「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」を表象するもの。
明治10年(1877)に東京神田錦町で学習院として開業した当初より使用され、現在の大学も桜章を継承しています。

東京目白にある学習院大学の堂々たる正門と門扉はみどころの一つ。
「学習院大学」の門標は安倍能成第18代院長の揮毫です。
高田馬場(西早稲田)にある学習院女子大学の正門も見応えあり。こちらは国の重要文化財です。
和洋折衷の意匠をこらした純国産鋳物製。この通称「鉄門」は、明治10年の学習院開業時に正門として設置され、明治19年に学習院が目白に移転する際に鐘ケ淵紡績本社の正門として払い下げられ、昭和5(1930)年に目白の学習院本院に戻り、さらに昭和25(1950) 年に現在地へ移築されました。

図2 府立高等学校

図2 府立高等学校

旧制府立高等学校(東京)も桜の校章です(図2)。旧制高校としては新しい昭和4年(1929)の設立。修業年限4年の尋常科(旧制中学に相当)と修業年限3年の高等科を併置した七年制の公立高等学校でした。
「東京府立」なのですが、当時すでにあった官立の東京高等学校(大正10年設置の七年制高校)と混同されぬよう、あえて校名から「東京」をはずしたとか。

府立高等学校は当時既存の蛮カラ高校タイプとは一線を画し、イギリスのパブリックスクールを範とするスマートな校風でした。
とはいえ、その校章は「国花桜」。これも本居宣長「敷島の・・」の精神をくんだものです。
桜花の中心部には旭日(朝日)がアレンジされています。
この校章は、東京府立第一中学校(現:東京都立日比谷高校)校章の「旭日と桜」を逆配置したもの。
そもそも府立高等学校は、東京帝国大学最短進学を実現すべく、府立一中の高校昇格(高等科併設)運動によって立案され、一中敷地内の仮校舎で発足しました。
しかし、一中優遇の施策に他の中学校が猛反発。結局、府立一中とは別組織の学校として、目黒区柿の木坂に移りました。

戦後、府立高等学校は東京都立大学となり、校章は東京都の「都鳥(ゆりかもめ)」をモチーフとしました。都立大学も今や首都大学東京となり、ロゴも黒とグレーのシンプルで斬新なものになりました。
同大学南大沢キャンパス南門脇には、旧制府立一中校長をつとめ、やがて府立高等学校初代校長として独自の校風形成に尽力した川田正澂(かわだ まさずみ)先生の胸像があります。

「朝日と輝く 国の名 負いて」

図3 日本大学

図3 日本大学

桜の校章といえば、日本大学を連想する方も多いでしょう。
明治36(1903)年に制服制帽が定められた際、合わせて徽章も制定しています。
日大校歌(相馬御風作詞・山田耕筰作曲)にも「朝日と輝く国の名負いて 巍然と立ちたる大学日本」とあるように、日本という校名にちなみ、校章には国花とされた桜を図案化しています(図3)
運動部のユニフォームや駅伝の「たすき」には「桜色」が取り入れられています。
かつてこの色を「ピンク」といったら日大の友人に怒られました。
「違う、桜色だ!」。

現在、日大は「自主創造」という教育理念を示す「Nドット」という新しいロゴマークを制定し、ロゴカラーもNICHIDAI REDとして力強い緋色が用いられています。

日本体育大学(東京都世田谷区)の校章は、漢字縦書きで「體大」なのですが、1955(昭和30)年制定のシンボルマークは六つの花弁を持った桜花でデザインされています。
中央の三つの花弁は体育大学のTを、背後の三つの花弁はそれを支える同窓、保護者、社会を表しています。各種のスポーツ競技会で活躍する日体大選手のユニフォームをチェックして下さい。
桜が凛々しく咲いてますから。
 
 
「かざせや 心の花ざくら」

桜は日本神話や古事記に登場する「コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)」の「咲や」に由来するとも言われます。「サクヤ(桜)」は、長い冬を終えて太陽と大地が復活したことを意味します。
華やかさと品格をあわせ持つ桜は「生命の生成」も象徴し、これがそのまま女性の美しさや尊さのイメージにも重ねられました。
そうしたこともあって、校章に桜を取り入れた女子学校、女子大学も多くあります。

国立大学では、奈良女子大学が桜の校章(図4)

図4 奈良女子大学

前身の奈良女子高等師範学校(明治41 年創設)の校章を継承し、八重桜の輪郭に八稜鏡(はちりょうきょう)を収め、さらに中心には撫子(なでしこ)の花を配置しています。
奈良も桜の美しいところ。
万葉集「あをによし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり」や、
百人一首「いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」は有名です。

旧制女学校に由来する学校では鏡(八角鏡)を基調とする校章が多くみられます。
古来、鏡は女性の魂を象徴したものとされてきました。
鏡に映すように己が心と行いを見つめ、常に自省し磨き高めよ。
そんな意も込めて、女学校の校章に用いられたようです。
共立女子大学や昭和女子大学の校章も桜と鏡を配置しています。
桜と鏡、そして撫子も組み込む奈良女子大学の校章は、女子校校章の「フルパック」型。
奈良女子高等師範学校校歌の歌詞には「かざせや 心の花ざくら」とあります。

「大学めぐり」としての奈良女子大学の見所おすすめポイントは、ライトグリーンと赤に塗られた正門から真正面に見える奈良女子高等師範学校旧本館。とんがり帽子の塔屋とハーフ・チンバーと呼ばれる洋風木骨壁面が美しい明治42年の建設です。
正門、守衛所とともに国の重要文化財。近鉄奈良駅からすぐです。

ところで、東の国立女子大学であるお茶の水女子大学の同窓会は「桜蔭会」なのですが、大学の校章は「お茶の花」です。ご参考まで。

図5 跡見学園女子大

さて、東京茗荷谷(文京区大塚)にあるお茶の水女子大学のお隣は、中学校から大学までの跡見学園です。跡見学園女子大学(跡見学園)の校章も桜。
学園創設者である跡見花蹊先生のお名前は桜にちなみます。
花蹊先生敬慕の象徴である桜の校章は、白くふっくらとした五弁の花びら(図5)
「丸みのある人間に育つように」という二代目校長の教えが込められています。
現在、跡見学園女子大学は、桜の花弁1枚をおしゃれにアレンジしたロゴも使っています。

音楽教育で有名な上野学園大学は、桜花と桜葉の校章。
明治37(1904)年に、前身校が上野桜木町(東京都台東区)で開学したことに由来します。
日本女子大学や実践女子大学も桜の校章をもつ伝統校。
歴史ある女子学校での校章制定は、昭和初期頃に洋装制服の採用を契機とした場合が多いようです。

「おくれ先立ち 花は残らじ」

平家物語に「経政都落(つねまさ みやこおち)」という話があります。
琵琶の名手であった平経政が、源氏に追われて都落ちする時、琵琶の名器青山(せいざん)を仁和寺に戻し、その足で西国に向かいます。
桂川の岸まで見送った幼なじみの僧行慶は涙ながらに一首を贈ります。
「あはれなり 老木若木(おいぎわかぎ)も山ざくら おくれ先立ち 花は残らじ」。
当時は武士道精神が形成されつつある頃。
行慶は、経政の行く末を散る桜花の美しさや潔さに重ね、峻厳な武士の姿としてむしろ讃えたのです。

やがて時代とともに、日本人は桜花に武士道を想うようにもなりました。
明治以降、桜は「日本精神」の象徴となり、国花として認識され、戦前教育の理念とも結びつけられます。軍や警察の徽章や階級章にも用いられました。

今日でも、小・中・高校にあって桜花は校章の横綱格です。
しかし、桜の校章を持つ大学は思いのほか多くはありません。
特に国立大学ではきわめてまれです。
第二次大戦の敗戦は、桜章に対する当時の日本人の感情を複雑なものにさせました。
民主国家として再出発するなかで発足した新制大学。
校章に桜を採用することは自然と控えたのでしょうか。
校章も時代や世相を反映していますね。

さて、次回は「桐と鳳凰」というテーマで校章話をいたしましょう。