新堀通也(しんぼりみちや) 先生

【第1回】  大学卒業まで ― 教育学との出会い

【第2回】  就職 ― 教育社会学との出会い 
 
【第3回】  米国留学と文部省出向 ― 大学研究との出会い

【第4回】  広島大学教授時代 ― 科学社会学との出会い

【第5回】  武庫川女子大学教授時代 ― FDと夜間大学院との出会い

【第6回】  後輩の大学研究者へ ― まとめとしての提言
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【第1回】大学卒業まで ― 教育学との出会い

 大学研究者の1人としてこの「自分史」は、私がいかにして教育を志し、さらには教育研究を志すようになったか、から始まる。私は旧制中学校(神戸一中、現在の神戸高校)に学んだが、高学年になって将来の進路の選択を迫られたとき、担任だった本間源一郎先生の助言と影響を受けて教職への道を選び、卒業後、先生の母校であった広島高等師範学校(英語科)に進学した。ちなみに戦前の旧制時代、広島高師は東京高師と並んで教育界、特に中等教育界の指導的教員の養成に当たるメッカと考えられていた学校であった。

 高師は4年制だったが、3年終了後、同じ学園に属する広島文理科大学(旧制)への飛び入学の道が開かれていた。私は高師在学中、教育の理論的研究に興味を抱き、文理大の教育学科に進んだ。当時、文理大の教授に稲富栄次郎先生がおられたが、この先生も広島高師の出身(大学は東北大学)で、一時、神戸一中で教えられたことがあり、その御縁から、私は先生を慕って文理大に進学したのである。私はこの両先生から(その他にも多くの師と出会ったが)、大きな影響を受けると同時に、公私ともいろいろお世話になり、教育や教育学への関心、師弟関係の意味を開眼させられた。

 太平洋戦争が始まったのは高師(第2学年)在学中だったが、戦時中の非常措置によって在学期間が半年短縮され、私が文理大に入学したのは、昭和17年(1942年)10月1日である。その後、戦局は急速に緊迫、苛烈化し、大学の最終学年(第3年次)のほとんどは、勤労動員で広島市近郊の工場で兵器(といっても材料難のため、チャチなものにすぎなかった)の生産に従事しており、とても研究や勉強どころではなかった。

 そして昭和20年8月6日の原爆。私はたまたま、その日が月1度の休日に当たった班に所属していたため、市内の下宿で被爆した。その数日前、空襲による延焼をくいとめるための建物強制撤去で市の中心部にあった下宿から、市内ではあるが周辺部の牛田町に移っていた。もしそれまでの下宿にいたなら、恐らく即死していたであろうし、その日が出勤日であったなら、工場への通勤途上で被爆していたはずだった。事実、その日が出勤日だった仲間の動員学徒の多くは被爆死の運命に遭っていた。

 私はたまの休日で、下宿で蚊帳の中で寝ていたので、直接、大きな被害を受けずにすんだ。偶然の運命、紙一重の差が生死を分けることを体験した私は、それ以外にもそれに近い経験を何度か味わって、一種の運命論者になる一方、不運にも命を失った多くの同胞の霊を慰めるためにも力一杯、生きなくてはならないと決意した。こうしたわけで、私が広島文理科大学教育学科を卒業したのは、昭和20年9月29日である。戦時下ではあるものの大学には規定通り3年間在学したことになっているし、卒業論文(題目は『ルソー教育思想の研究』であった)も提出していた。しかし卒業したのは終戦直後であり、校舎も戦災で焼失していたし、教授も学生も各地に散らばっていたので、とても卒業式どころではなかった。卒業証書も郵送されてきたように思う。戦中・戦後における私の青春時代の日記は今も手元に残っており、その中には私が詠んだ短歌1000首以上が収められている。最近、私はそれを編集して『歌集 戦中戦後青春賦』(平成18年 私家版)を出版したが、極限状態ともいえるきびしい時代の中で、多感な青年が学問、芸術、祖国、人間への愛を抱きつづけたことが、そこに描かれており、それが私の教育と教育研究との出会いを説明しているように思う。
 
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 昭和19年10月1日 (23才-大学3年時代)

 文理科大学教育学科 新入生歓迎会

 〔最後列 左から4人目〕
 

 

 【第2回】 就職 ― 教育社会学との出会い

 大学卒業の翌日の日付で、私は文部大臣から「広島女子高等師範学校教諭を命ず」という辞令を受けとった。当時はまだ旧制だったので、教員養成系の大学や高師の卒業生は、採用試験などを経ず、教員に採用され勤務校を指定されていたのである。私が最初に赴任した広島女高師は広島文理大や広島高師その他の高等教育機関とともに後の新制・広島大学の母体となった学校である。戦時中、広島市内にあった私立の山中高等女学校が国立に移管され、これを母体に国立の広島女高師が出来、山中高女はこの女高師の附属となったのである。私は教諭として附属高女で1年生の担任を命じられると同時に、女高師でも授業を担当した。戦後の仮校舎の中での最初の教員生活であった。

 1年後、母校、広島高師助教授を命じられ教育学を担当することになった。当時は教育学自体、細分化されておらず、教育哲学、教育史、教育行政学など、大まかな区分があるにすぎなかった。私も高師では主として教育哲学と西洋教育史の講義と原書講読を担当した。公的な地位の上からも教育学の専門家としての道を歩み始めた私は、研究や思索の対象を教育の真髄、本質に求めようとし、それを教育愛に求めた。私の尤も初期の著作『教育愛の問題』(昭和29年,福村出版,後に『教育愛の構造』,昭和46年,福村出版,として改版)の原稿はこのころから書き始められたが、そこでは愛の類型をエロス、アガペー、フィリアの3つに求め、教育愛をその総合と解し、教育の本質をこの教育愛に見いだし純粋に哲学的考察を加えた。

 昭和26年、新制大学が発足し、広島高師と広島文理大(教育学科と心理学科)とは新制の広島大学教育学部の母体となったため、当時、高師の教授であった私も、新制の広島大学教育学部助教授に配置替となった。新制大学の教育学科に米国の制度をモデルに、多くの下位分野に細分化されることになった。昭和30年、いくつかの旧制大学教育学部と同時に、広島大学にも大学院教育学研究科が発足したが、その際、私は自ら進んで新設の教育社会学の講座に所属した。そこにはそれまでわが国の教育学にはほとんど知られていなかった教育社会学という新しい分野に魅力を感じ、この新天地に挑戦したいという知的好奇心とフロンティア精神とが強く働いていた。

 私が大学の卒業論文のテーマに取り上げたのは前述の如くルソーの教育思想だが、個人と社会、教育と政治の関係を中核とする彼の思想は教育社会学の基本問題に連なるものがある。私のルソー解釈は後に『ルソー』(昭和32年,牧書店)、『ルソー再興』(昭和54年,福村出版)として出版された。教育学という母国で受けた哲学的訓練は、移住先の教育社会学に影響を与えつづけた。私はたえず教育社会学の基礎理論の構築から逃れることができないでいる。教育社会学の「学論」は私にとって中心的な関心であった。教育社会学基礎論への手掛かりとして最初に取り上げたのは、デュルケームであり、彼は教育社会学のパラダイムとモデルを提供している。こうした観点から彼の理論的体系を再編成しようとしたのが、私の学位論文にもなった『デュルケーム研究』(昭和41年,文化評論出版)である。

 他方、教育社会学者として歩み始めた私が最初に手掛けた実証的研究は、日本的ともいえる痛切、深刻な現実問題として入試競争、受験準備教育の研究であった。初期の著作『大学進学の問題』(昭和30年,光風出版)がそれであり、その背景に学歴主義、学歴社会などがあり、学歴の頂点には大学が位置するから、この著作は私の大学研究の入口になったと解し得るだろう。
 
【第3回】 米国留学と文部省出向 ― 大学研究との出会い

 昭和34年、私はフルブライターとして米国シカゴ大学に留学した。私を受け入れてくれたのは、同大学の比較教育センターである。ここで得た考え方は、帰国後(昭和37年)「ネポティズム社会学の構想」という論文で整理したが、そこでは研究テーマ発掘の原理としてアチーヴァビリティとアクセシビリティの2つを挙げ、教育社会学の歴史的展望のもとで、この2つを兼ね備えたテーマの代表として、日本的ともいえる学閥と学生運動を挙げた。この2つのテーマは何れも大学と深くかかわるが、私は帰国後、このテーマの研究を精力的に進めた。学閥は大卒の間で、特に大学において最も顕著だといわれるので私は『日本の大学教授市場』(昭和40年,東洋館)で学閥の実態を実証的に解明した。学閥や大学はそれまでほとんど研究されてこなかったが、これと並んで私が「日本的」現象として研究対象に取り上げたのは、学生運動であった。

 私は帰国後、日本の学生運動に関する論文を米国社会学会(ASA)の機関誌にリースマンの推薦を得て2回にわたって連載した。ちなみに私は留学に際して考えていたことがあった。それはどうも日本人は外国から学ぶばかりで、研究成果を外国語で発表し、世界の学界に貢献することを怠っているというきらいが、特に人文、社会科学で強い。そのように考えた私は留学を機にできるだけ、外国語で論文を発表しようと心掛けたのである。学生運動はその後、全世界に拡がり大きな衝撃を与えるが、1967年、リプセットが音頭をとってプエルトリコで世界最初の学生運動に関する国際会議が開かれた。私が永井道雄とともに日本から招かれたのも、ひとえに上記の論文による。ここで発表したペーパーはやがて米国学術会議(AAAS)の機関誌、つづいてリプセット編の学生運動に関する論文集その他に収められた。昭和47年、日本の国際文化振興会は、私と喜多村和之との編になる英文の日本教育者向けの学生問題に関する書誌を出版した。

 このように昭和40年代、わが国では激しい学生運動が蔓延しており、その研究に私はいち早く取り組んできたが、そのためもあってか、私は勤務先の広島大学で学生部学生課長の併任を拝命することになった。大学は全共斗などの学生運動による「解体運動」の標的となっていたが、私はそれに対応する学生部の最前線にあってつぶさに学生運動の実態を体験した。この実体験に基礎付けられつつ、学生運動を研究した結果は『学生運動の論理』(昭和47年,有信堂)として出版された。

 このように米国留学と広島大学学生課長併任とは、私に大学研究への道を大きく開くことになった。特に「日本的」ともいえる大学教授市場における学閥と、学生運動とは、教育社会学的大学研究の2つの主要テーマとなった。前者は大学教授の、後者は大学生の「日本的」特徴を端的に表している。学生運動の激化は大学教育の内部的崩壊を招き、1960年代、その世界的蔓延は教育危機と称された。その危機打開の方策の1つとして生涯教育の原理がユネスコによって打ち出されたが、私は昭和43年、広島大学助教授併任のまま、文部省に招かれ社会教育官に任命された。最初2年間の約束だったが、1年延長し、文部省で生涯教育の在り方に取り組んだ。生涯教育という教育全体の再構築の枠の中で、大学改革を進めようとするユネスコ、OECDなどの国際会議にもしばしば派遣された。大学教育関係で文部省時代の主著には『学閥』(昭和44年,福村出版)の他、4冊の翻訳がある。
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1968年7月

ハンガリー(ブダペスト)における
ユネスコ主催の文化センター発展に関する
国際会議にて

 〔右から2人目〕
 

        
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 メキシコ国立大学における
世界ガイダンス会議にて

 〔壇上左端〕
   

【第4回】 広島大学教授時代 ― 科学社会学との出会い

 昭和46年には広島大学専任に戻り、翌年、教授に昇任、大学院教育社会学の講座主任となり、教育社会学の学論、学史など基礎的理論の構築に努める一方、多くの実証的研究に打ち込んだ。その多くは研究費助成を受け講座関係者による共同研究の形をとって行われた。代表的な研究テーマとしては「アカデミック・プロダクティビティの研究」(昭和46年度,日本経済研究財団;47年度,科学研究費),「学界の人口構造の研究」(昭和52年度,エッソ研究財団),「アカデミック・コミュニティの比較研究」(昭和54,55年度),「科学社会学の基礎理論に関する研究」(昭和55年度,三島海雲記念財団),「知日家の形成過程に関する研究」(昭和55年度,21世紀財団),「アカデミック・プロフェッションに関する研究」(昭和56,57年度,科学研究費),「科学におけるエポニミー現象の研究」(昭和58年度,科学研究費)などがある。直ちに明らかなように、これらはすべて大学や学界に直接関係するテーマであり、研究機関としての大学、研究者としての大学教授などに研究のメスを入れようとしている。

 その際、最大の示唆、よりどころとなったのは研究の研究、科学の科学の代表たる科学社会学である。この学問に私を導いてくれた最初の人はベン・デービッドであり、私はシカゴ大学で彼と直接、同僚として知り合い、その論文を編集して『科学と教育』(昭和45年,福村出版)のタイトルで翻訳したことがある。

 大学教授の研究は前に述べた通り、学閥との関係に焦点をおいた『日本の大学教授市場』(昭和40年,東洋館)を初め、多面的に行われた。大学教授は教育者、教師であるとともに研究者、学者であり、大学は教育機関であるとともに研究機関であるし、大学教授は大学に所属するとともに学界に所属しているから、こうした点から大学人や大学の研究に進まざるを得ず、大学や大学教授の研究の基礎理論として科学社会学との出会いがあった。科学社会学の歴史と体系は『日本の学界―<学勢調査>にみる学者の世界』(昭和53年,日本経済新聞社)の巻末「補説<科学の社会学>」でまとめた。

 しかし科学社会学が対象とする科学が自然科学、またはそれに範を取る科学に限られる傾向があることに不満を感じ、社会科学や人文科学にまで対象を拡大しようと私は考えた。私が自分にとって最も身近な日本の教育学、中でも教育社会学と、最も遠い外国における日本学、中でも日本研究とを事例に取り上げたのも、著書の1つに科学社会学ではなく『学問の社会学』(昭和59年,東信堂)というタイトルを付けたのも、そのためである。

 そのほか、科学社会学、研究機関としても大学、研究者としての大学教授に関係する社会学的研究の成果には『学者の世界』(昭和56年,福村出版)、『大学教授職の総合的研究』(昭和59年,多賀出版)、『外国大学における日本研究』(広島大学大学教育研究センター「大学ノート」60号,昭和60年)、『学問業績の評価―科学におけるエポニミー現象』(昭和60年,玉川大学出版部)、『知日家の誕生』(昭和61年,東信堂)などがある。そのうち、エポニミーとは「冠名現象」を指すが、学問業績の評価方法としての引用分析と氏名分析に加えて第3の方法として冠名分析を提唱し、2万の冠名現象を多角的に分析した新しい試みであり、また知日家、すなわち日本を理解する外国人の形成過程の研究もそれまで未開拓の分野であった。広島大学大学教育研究センターとは創設以来、長いつき合いをもっていたことも、これらの研究と深い関係があった。
   
【第5回】 武庫川女子大学教授時代 ― FDと夜間大学院との出会い

 昭和60年3月、私は広島大学を定年退職した後、直ちに郷里、神戸市近郊の武庫川女子大学教授に迎えられ、同大学の教育研究所長に就任した。終戦以後、広島大学(その前身校、すなわち女高師と高師を含めて)で40年間、つづいて武庫川女子大学で20年間を送った。つまり合計60年、大学で暮らしたことになり、私にとって最も身近な大学に現地調査する機会をフルに活用できた。上記著書の中、エポニミー研究と知日家研究とは広島大学在職中の研究をまとめたものだが、武庫川女子大学着任後に手がけた研究の代表は、「生涯学習における必要課題」(昭和63,64年度,科学研究費)、「FDの研究」(平成元,2,3年度,私学振興財団)、「不本意就学に関する研究」(平成元年度,科学研究費)、「夜間大学院の研究」(平成7,8,9年度,科学研究費;平成10,11,12年度,私学振興財団),「臨床教育学の体系と展開」(平成11,12,13年度,科学研究費)などである。これら研究費に支えられた研究の成果は、『生涯学習体系の課題』(平成元,ぎょうせい)、『私語研究序説』(平成4年,玉川大学出版部)、『大学評価』(平成5年,玉川大学出版部)、『夜間大学院』(平成11年,東信堂)、『臨床教育学の体系と展開』(平成14年,多賀出版)などの著書に結実した。

 私が武庫川女子大学着任後、特に力を注いだのは、臨床教育学専攻の夜間大学院の創設であった。夜間大学院は主として社会人を対象とするリカレント教育という新しい大学院であり、臨床教育学は教育病理を対象とする新しい学際的な学問分野である。全国でも初めての臨床教育学なる名称を冠する夜間の独立研究科が認可されたのは、平成6年のことであるが、教育病理を意識的に取り上げたのはそれよりはるか以前、中でも大学進学の問題としての受験戦争、入試地獄、それを支える学歴主義、学歴社会、「学歴病」患者などへの関心であった。それについてはすでに述べた通りだし、その延長線上で学歴主義の一種である学閥は大学教授市場の研究を通して扱ったし、大学に現れた病理現象として学生運動、私語、不本意就学なども私の大きな研究対象であった。臨床教育学が対象とする教育病理への私の関心は、このように大学研究によって大きく触発されたし、夜間大学院の現代的意義は文部省で社会教育官として生涯学習、リカレント教育の振興と研究に取り組んだことによって意識されたのである。また臨床教育学の方法的、制度的特徴たる学際性(インターディシプリナリティ)の概念や歴史自体の研究は『教育病理への挑戦―臨床教育学入門』(平成8年,教育開発研究所)の中で一章を割いて説明した。この研究は、学際性に関するOECDのセミナー(昭和59年,スウェーデン,リンシェピン大学)に日本代表として参加したことを契機に取り上げたものであり、わが国ではほとんど本格的に行われてこなかった研究である。当時、私は広島大学大学教育研究センター長を併任しており、その関係から上記セミナーに出席したのである。

 教育病理への対応策として臨床教育学の立場から、多くの政策提言が可能であり、また実践的療法も提唱できる。教育システム全体でいえば生涯教育を指摘できる。教育を学校にのみ委ねることを止め、ヨコの面でもタテの面でも学校外教育との統合が特に現代の如く変動の激しい社会では必要となる。生涯教育の原理を学校に適用するときリカレント教育が主張されるが、それが具体化した例が夜間大学院である。私は文部省時代以来、生涯教育、リカレント教育に関するユネスコ、OECD主催の国際会議に数多く出席したが、それも契機となって、夜間大学院設立に参加し、その研究を手がけた。
 
【第6回】 後輩の大学研究者へ ― まとめとしての提言

 以上、私の履歴書に即しつつ、特に大学研究の歩みを述べてきた。学生時代も含めるなら、60年以上を大学で生活してきたのだから、その実体験に基づいた大学の研究は私にとって最も身近な意味をもっていた。この長い大学研究の歩みから、次世代、後輩の大学研究者に訴えたいこと、あるいは彼らにとって多少のヒントになるであろうことをまとめてみたい。

 すでに指摘はしたが、科学、学問、研究の発達は既存の知識に新しい、しかも正確な知識を付加すること、すなわち発明、発見とその公表によって行われる。今まで研究されていなかった道、未開拓の事実を取り上げて研究すること、今まで存在しなかった新しい理論、解釈や方法、技術を開発すること、その妥当性が証明されることによって、科学や学問は進歩する。その研究成果は公表され、同じ研究者仲間の共有財産になってこそ、相互の批判は可能になるから、公表は科学の進歩発達にとって不可欠であり、科学者、研究者にとって職業倫理であり、科学の規範、エトスである。こうした発明発見を独創と称する。

 独創性(オリジナリティ)の追求は科学、研究に従事する人が最も重んじるところである。独創性を高く評価される価値のある成果、業績をアチーブメントと称するから、彼らはアチーブメントの生産を目指して研究活動に従事する。その際研究対象、研究テーマの選定、発見自体が、まず決定的な重要性をもっている。ノーベル賞受賞者を研究したズッカーマンは、受賞者が若き日師事した受賞者はほとんど例外なく、その師から問題解決より問題発見の重要性を教えられたことを明らかにしている。

 私自身は以上のような事実を、大学研究の基本的理論の1つたる科学社会学から教えられたが、研究テーマ選定に当たっての2つの原理としてアチーヴァビリティとアクセシビリティに基づいて学閥、学歴意識、学生運動、私語、知日家、エポニミー、学際性、夜間大学院、臨床教育学などを取り上げたのはその具体例である。これらは何れも現実的にも深刻、切実な現象、課題であるにもかかわらず、それまであまり研究されてこなかっただけでなく、学問的、理論的にいっても大きな価値があり、例えば「日本的」「現代的」な問題の解明に大きく寄与するであろう本質的問題がかくされている。

 研究者にとって最も身近なところに存在し、少なくとも地理的、物理的にアクセスしやすいのは、自らが所属する社会や集団である。研究者やその志願者は大学に所属し、大学で生活している(またはいた)。大学は「現地調査」の場である。その大学のうちでも自分にとって最も身近な日本の大学、中でも母校や勤務校は格好の研究対象となり得る。学界や学会も自らが所属し、自らがその研究成果を発表し、同じ専門家仲間からの評価を求める社会である。こうした身近な集団や社会を内側から観察し、その中で生活してみると、数多くの特徴や問題が見いだされるにちがいない。教育や社会の研究者にとって、大学は宝の山であり、数多くの貴重な研究テーマがかくされているはずだ。

 自ら進んで選んだにせよ、乞われあるいは強いられて引き受けたにせよ、地位や役割をフルに生かすことも大学研究には新天地開拓の大きなチャンスになる。すでに述べたように私は学生課長、文部省社会教育官、シカゴ大学留学、広島大学大学教育研究センター長、武庫川女子大学研究所長などの他、広島大学教育学部長、同附属中高校長などいろいろな役を経験したが、その役に全力投球することによって得難い研究のチャンスが得られたと思う。  

< 完 >