中山 茂(なかやま しげる) 先生

【第1回】  生い立ちs.nakayama

【第2回】  「高等教育」との出会い 

【第3回】  これまでの研究生活

【第4回】  若い高等教育研究者への期待
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【第1回】 生い立ち

 山青く水清かるべき故郷が僕のばあいは尼崎市のスラム街、どぶ川にメタンガスのあわ立つごとく昭和三年生まれ出でた。中級サラリーマンの次男は、日雇いを主とする部落人口では、「金持ちのボンボン」、少年時代はお山の大将として腕力を揮った。関西弁も消え、故郷と絶縁状態となった今、残っているのはタイガース・ファンであることだけである。

 太平洋戦争の始まった年、大阪の北野中学に入り、翌年広島一中へ転校、広島高校理科と六年の広島生活の間、母の死や原爆に遭い、余り印象はよくない。しかし、高等学校は例外で、終戦前後の混乱にもっとも多感な時代を送り、原爆で倒れた校舎の復興に学生演劇をやって金を稼いだり、文学青年面して同人雑誌を出したり、野球の選手もやった。終戦の年、兵役逃れに理科に入ったものの、あまり理科生らしくなかった。

 昭和二十三年東大理学部天文学科に入る。天文を選んだことには、当時ニヒルな風潮が影響したことは否めない。親許離れた大学時代は栄養失調、在学中、学生掲示板の闇米相場が最高に達したことが記憶に残る。卒論は原子スペクトルの計算、懸命にひねくったが、一九三〇年代のテーマだったので、大した結果は出なかった。

 天文学的才能があったとは到底思えぬが、一つには下界がむしょうに恋しくなり、二十六年大学を出るとすぐ平凡社編集部に入った。男一匹食って行く自信はできたが、サラリーマンに徹することもならず、ジャーナリスト気取りで雑文も書いたが、もっとまともなことがしたい。幸い仕事は能率よく(要領よく)やればずいぶん自由な時間がとれた。身辺に多かった科学史の先輩の影響で、その方面の翻訳をしたが、三冊目くらいで自分のものが一向たまらないことに気づいた。そこで翻訳が機縁となって、三十年外国に渡ることになった。

 科学史の本山たるハーバード大学(学科の正式な名はHistory of Science & Learning)を選んだことに間違いはなかったが、独学科学史とアカデミックなものとは素人と玄人の差があまりにも明瞭、そこでアメリカ人との競争でエラく苦労した。そのまま天文をやっておけば、こうしたなげきはあるまいにとぼやいたものだ。

 四年半の在籍の後半は米→英→米→日→米→スペインと研究上の必要からというものの、独り身の気安さで半年ごとに海を渡る生活であったが、別に放浪癖があるわけでなし、昨年秋のイラン・アフガニスタンへの旅を最後として、もう落ち着きたいものである。自分の方向も決まった。学位論文であった東洋天文学史の研究を続けること、近世における科学と技術の関係、研究体制史にも手を拡げること、そして科学史を英米並みに大学にねづかせること、そのためには科学史のCMをやる。喧しくて迷惑する向きもあろうが、反復によっていやでも視聴者に印象づける近代広告術の原理を応用するつもりである。

以上、東大に就職したときに書いた“私の履歴書”「教養学部報」1960より
   
【第2回】 「高等教育」との出会い

 僕の大学生生活は惨めだった。入学した昭和23年は食糧難で、配給が欠配になり、トウモロコシの粉を手に入れて、飢えを防いだが、粗末な食事で胃腸がやられて、栄養不良、三鷹の寮からお茶の水までの中央線で立っておれなくなって、しゃがみ込んで、席を譲られたことがある。学業よりも生き残ることの方が最大関心事であった。

 それでも、折角入学したのだからと、最終年(旧制大学では3年生、東大理学部では学年制を取らず「後期」といった)は卒論一本にしぼって励んだ。当時は日本の科学界は戦時中の情報鎖国の時に生じたギャップを埋めることに汲々としていた。僕は先生に云われて、1930年代のテーマに取り組んで、それに新しい情報を求めて、日比谷のCIA図書館に行って、新着の英文誌を手写したものである。

 仕事は量子力学の複雑な計算だが、それを数式をひねくって解析的にうまく解こうとしていた。ある時、例によって新着英文誌を写していると、その中に僕のやっていることはパンチ・アンド・カード・メソードで400倍も速く、どしどし解いている、という記事を見つけた。ショックだった。

 今にして思えば、そのメソードはコンピューターの前身とも云うべきものであった。後に科学史家として振り返ってみると、その年、1950年はイギリスのケンブリッジで量子力学の計算にコンピューターを使い出した初めの年であった。

 かくして、僕の卒論は、膨大な数式を立てたが、こんなことをやってもしょうがない、という結論であった。しかし、先生はもっと続けろ、という。僕はもう続ける気はなかった。そして大学を離れた。それはよい選択であったと思う。同じ方向を続けた他の人はろくな仕事を出せなかった。

 大学時代に卒論に沈潜して、そのあげく挫折を体験して、果たして僕は世間で通用するのかと、不安になり、無性に世の中に出たいというのが当時の気持ちであった。そして出版社に勤めた。サラリーマン生活を身につけるなど大したものではなく、やがて何かしなくては、と思うようになった。

 僕は出版社では科学史関係を担当して、周りには星野芳郎とか、科学史の先輩が多くいた。当時科学史は大学には居場所がなく、出版社勤めの人が多くいた。科学史関係のものは高校時代にかなり読んでいたが、日本の特徴はマルクス主義系統の唯物史観科学史が主流であった。ただ僕はその中で、科学は社会経済的な下部構造によってきまるという下部構造決定論には少し違和感を持った。それよりも「中間構造」と称して、科学という上部構造と下部構造の中間の大学とか学会とかの中間構造を重視しなければ、というのが僕の主張であった。そこには僕の挫折体験が効いてくる。

 僕にはまずこんな貧しい研究環境で研究など出来るものではない、という思いがあった。当時、戦後民主主義下で名古屋大学理学部物理学教室の教室会議制に若手研究者が注目していた頃なので、東大の研究体制にも疑問を持ち、ひいては日本の大学史、研究体制史に関心が集まった。下部構造決定論では、とかく悪いのは資本主義体制だと遠吠えしておけば、自分は安泰だ、良心も傷つかない。しかし、身の回りの批判をすれば、すぐ自分に跳ね返ってくる。その中間構造から出発して、やがて体制批判にも移るのが順序だ、と思ったものである。

 それが僕の「高等教育」との出会いである。研究の場としての大学が中心であって、教育学者のように初中統教育からの高等への延長としてではない。
出版社勤務は大学時代よりも面白かった。僕が受け持った主な仕事、『科学技術史年表』の編集を通して、めぼしい大部分の日本の科学史家とは知り合えた。また組合を作って、ストライキを成功させるという体験もした。しかし、出版社勤務の余暇では翻訳くらいは出来るが、まとまった仕事は出来ない。ここらでもう一度科学史の正式のトレイニングを受けようと、先輩の薦めもあって、フルブライトの留学生としてアメリカに渡った。

 ハーバードでは科学史はまだ独立した学科になってはいなくて、学術史と抱き合わせで高級学位授与プログラムとして存在した。学術史というのは科学史の背景としての大学史のことである。私にはもっともピンと来るプログラムであった。しかし、大学史のユーリッヒ先生は元ドイツの大学職員であって、日本人の僕には懐かしいドイツ観念論哲学者の雰囲気を以て「西欧大学の歴史と現状」を講じる人だったが、大学史としてはほぼ自分で勝手にやっていったに過ぎない。
   
【第3回】 これまでの研究生活

 日本に帰った僕は、科学史の方では前から知り合いは多かったが、大学史の方では誰も話し相手がいない。そもそも大学史は教育学者の専門ではなかった。広島大学の皇至道先生が教育学者としては唯一の存在、それに西洋史の島田雄次郎先生くらいであった。そして僕は皇門下の横尾壮英さんを見つけて広島へ会いに行った。
 
 二人は、大学史の古典についてよく話が合った。中世大学の起源はラシュドールなど、僕はさらに中世大学のイスラム起源を求めて、サイリを上げた。大学とは云えぬが、知的活動の制度としてのギリシャではマルーに一致した。それには近代大学のモデルとなったベルリン大学はじめ、19世紀に重点がある。その中間の近代科学成立期には、パドウアの例外はあるが、一般に大学は反動的役割をした。
 
 二人の出会いから大学史研究会が始まったことは、『大学史研究』などにすでに書いた。横尾さんは教育学者を引っ張ってきた。僕の関心の中心はやはり研究の場所としての大学であって、科学史はじめそれぞれのディシプリンの専門家をレクルートする役をした。僕にとっては教育学部系の人と接触することは、初中等教育からの延長としての「高等教育」と接することであって、それは20世紀の問題であった。時が経つにつれて、研究会には教育系の人が多くなったが、ただディシプリンについては、我々が資料をいくら読んでもわからないところが、専門家に聞くといっぺんに解決してしまう。たとえば、医学では中川米造氏を呼んでくれば、たちどころに疑問が解決する。
 
 普通の文科系の講義やセミナーの授業だけではわからないものの極には医学部の解剖と軍事学がある。解剖には一度病理解剖を見せて貰った。非常に印象的で、貴重な体験であった。体験すれば人生観が変わる。軍事関係は戦後の日本には存在しないようなものだから、バークレイにいたとき、ROTC(予備役士官訓練センター)の授業に参加した。これも得難い体験であった。
 
 本として出したものは、『帝国大学の誕生』でこれは日本の大学史をやるには避けて通れないものである。もう一つ『アメリカ大学への旅』(後に『大学とアメリカ社会:日本人の視点から』として再販)は僕が企画した大学への旅シリーズで自分ではアメリカの大学を担当したもの、やはり大学のようなシステムは自分で体験してみないとわかりにくい。
 
 大学の名を冠しないが、クーンのパラダイム史観を洋の東西の比較学問史の上に拡げた『歴史としての学問』の近代の方は大学と密接にかかわる。その他、論文でも僕が科学史について書いたものには、大学史の背景を扱っているものが多い。
 
 なお、教育との関連では、トヨタ財団の「ポスト中等教育プロジェクト」のヘッドをやらされた時に、学んだことが多い。
   
【第4回】 若い高等教育研究者への期待

 僕の友人に多い組合関係者は、大学法人化案に対して、国家公務員の地位を失うからと云う理由で反対したが、僕はそれを押し切って、大学法人化に賛成した。その案の発生は行革のための人数合わせに過ぎないことを知りつつも、これが大学改革のラースト・チャンスだと思ったからである。

 思えば、日本の近代大学は明治新政府の官僚制作りの部局の一つとして出発した。それは既成の西洋科学の導入のシステムとしては、効率よく、取りこぼしなく、機能したかも知れない。しかし、日本も欧米の国並みに大学で研究もする段階に達すると、そのインフラが官僚制度と矛盾する点が多く見えるようになった。端的に言えば、「未知の探求」である研究は、官業の計画通りに執行することと矛盾するのである。計画通りに行えるものなら、研究の必要はない。つまり研究には官業とは違った特殊なインフラが必要なのである。

 ところが明治以来今に至るまで、研究活動の大部分を占める日本の国立大学は官僚制度の中にあった。その間、教授会の自治とか、戦後民主主義下の講座制棚上げとか、個人研究への科研費配分とか、大学の特殊事情をわきまえた文部官僚によって大目に見られてきたが、制度として官僚制度の中にあることには変わりはない。そして明らかに制度疲労が来ている。僕のように歴史を通してみると、やはり官僚支配が日本の国立大学の特徴であり、欠陥である、といわざるを得ない。
 
 欧米の研究者は日本の大学や研究所に来ると、その国家官僚的制約がきついことに驚く。アメリカ帰りの日本人は怒る。私大から国立大に移ってきた人も怒る。僕もアメリカも私大も経験して、東大と云うところはひどいところだな、と思う。それは研究とか教育とかの本来の目的とはかなりずれた、不合理な制度になっているからである。そのために、あるいは官僚の支配体制の維持のために、帳簿の上では辻褄を付けても、本来の研究教育とは無縁な方向にかね・時間・エネルギーを無駄遣いしている様を嫌と云うほど見せつけられた。未知の探求である研究や、成長する生身の人間を扱う教育が、トップ・ダウンの管理体制と合うわけがない。

 それに対して、大学人がこれまでいろいろ改革案を出してきた。しかしそれが通らないのは、基本的には官僚制度と合わないからであり、大学人が自己裁量権を持たないからである。今度、独立大学法人になったのだから、大学が自己最良で改革案を通せば、と期待していたが、どこからも聞こえてくるのは、独立法人になってかえって締め付けが厳しくなって、自由が侵害される、という声である。独立法人化の時の文部大臣の遠山さんは、これからはすべて大学で独自に自己裁量でやればよいのだ、というが、現実の大学は独立法人化の精神に反して、官僚支配の維持のために規制が厳しくなる一方である。それに対して、独立法人だと云うことを言い続けるべきだが、それだけで規制のエスカレーションに抵抗できるか。

 僕は究極的には大学や研究所の事務長がキャリア文部官僚の巡回ポストであることを止めさせて、大学の任命制にしなければ、解決しないと思う。大学の事務官にもっとシステムを改良しょうと相談しても、彼らは事務長から文部省の上の方を向いていて、話にもならない。そこが私大の事務とは大違いだ。

 僕の親しい事務官や文部官僚には、大学の問題に理解と見識を備えている人が結構いるのだが、そうした人も、個人としてではなく、組織として官僚制度の枠の中でしか動けないようだ。なかには、ほっておくと大学は勝手なことをするから、それをいかに抑えるかが自分の仕事だと心得ている文部官僚もいる。

  官僚天下りの原理に従えば、官僚がいないと予算を取ってこられない、という、本当か。パイの配分にあずかるだけではなかったか。最近ではやっと欧米並みに近づいたが、研究教育への国費の出費は欧米に比してずっと少なかった。北欧では税金は日本の倍くらい高いが、その分はすべて教育に行き、機会の平等を実現している。日本は先進国のなかで高等教育の親がかり度が一番強いのではないか。

 国立大学は明治以来予算の請求権はなかった。文部省の取っててきたものを山分けするだけであった。経営体ではなかったのである。経営体でなければ、大学の自治とか研究教育の自由とか云っても、本当の独立は出来ない。遠山さんが独立して自己裁量でやれ、といっても無理な話である。すると、役所と関係なく自分で予算を請求するか、イギリスにかつてあったUGC(大学助成委員会)のように、まとめて国大協のようなところで請求するかしなければならない。

 UGCはサッチャーによってつぶされ、それから大学は貧乏になった。UGCは古典的自由の大学のもので、現状に会わないという人もいようが、明治からずっと官僚制度の一部局であった日本の国立大学は、一度は独立してみて、それから自主的に周囲との調整をはかればいい。それまで、真の独立を言い続けねばならない。今の大学の執行部の世代は、自己裁量の経験がなくて、官僚との折衝に疲れて、自由独立の精神を摩耗させているだろうから、若い世代に待つしかない。

< 完 >