黒羽亮一(くろはりょういち) 先生

【第1回】  生い立ちから高等教育までkuroha1

【第2回】  学生と新聞記者の時代

【第3回】  高等教育政策の追及に

【第4回】  高等教育研究者への期待
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【第1回】 生い立ちから高等教育まで

 私は昭和3年(1928)、当時の地名でいうと東京都荏原郡世田谷町太子堂に生まれた。渋谷駅からの田園都市線に三軒茶屋という駅があり、繁華街であることは、東京に住んでいない方でもご存知だろう。しかし当時は、連隊や戦車学校など各種の陸軍施設のある地域の、さらに外縁の武蔵野台地だった。転居のため、小学校はそこから西南3㎞ほどの、目黒区衾町にあった区立八雲小学校に入り、昭和16年に卒業した。国民学校と改称される年である。戦前の小学校の最後の卒業生ということになる。

 日中戦争は12年に始まり、興亜奉公日ができ、同級生の職業軍人の父親が戦死するなど、戦時の匂いが立ち込めてきた。しかしまだ、向田邦子が描き、久世光彦が演出したテレビドラマのような環境だった。卒業の年に生活必需物資統制令ができて、米が配給制になった。翌年に食塩配給制、衣料切符制度と生活は急激に厳しくなった。

 中学校は東京府立12中(のち都立千歳中)というところに入った。戦時体制下の中等教育拡充政策の一環としての、昭和14年の新設校の3期生である。中学校での体験と、のちに得られた知見をまじえて書くと、校長は福井の師範学校から東京高等師範学校を卒業、現場の教員は5年ほどで、東京府視学が長かった、いわば教育官僚だった。それが校長となったわけだが、まだ37歳で張り切っていた。

 それにはよい面とわるい面があった。よい面は高等師範・文理大出身者を中心に俊秀教員を多数集めたため、全般的によい授業が受けられたことである。数多い記憶の中から一例だけ取り出せば、東洋史の授業では日本の傀儡政府である南京の汪兆明と、日本の敵だった重慶の蒋介石とを、共に客観的に紹介してくれた。それを聞いて、前者を担ぎ、後者と戦う日本の戦時外交に批判の目がでてきた。

 わるい面は、新設中学の校長が時局に便乗して評判を高めようとしたことである。例えば14年の創設時から制服は国防色(カーキ色)で、鞄は背嚢(ランドセル)だった。中学生の標準は黒の制服に白の下げ鞄だった。国防色の方が望ましいという指導になったのは、東京では16年だから、2年も先取りしていたことになる。17年には「昭和万葉集」という軍国和歌集ができたが、さっそく、毎日始業前にその朗詠が強制された。翌年の教育課程改正で「修身公民」の時間が「修錬」になると、葉隠(山本常朝)、啓発録(橋本左内)などが、超国家主義的解釈のもとに読まされた。軍事教練は本物の軍隊の訓練より厳しかった。すべて校長の強い指導だった。

 戦時中の学校改革で、私の学年から中学校が1年短縮されて4年制になった。私は家計上の理由で、旧制高校から旧制大学への6年かかる道は考えず、3年でよい専門学校に進学しようと思っていた。しかし戦争激化で、同類の多くが陸軍士官学校や海軍兵学校を受験するので、それに倣った。戦後聞いたところによると、競争率は15倍だったそうだが、何とか入学できた。昭和20年4月から8月まで、江田島にいたのである。

 会ったことはないが、哲学者の木田元先生は満州(中国東北地区)の中学校からやはり海軍兵学校に進学した、私の同期生のようである。木田先生は「あの時代、少しでも長く学校にいようと思えばそうするしかなかった」と書かれている。私の気持ちも一言で言えば、そんなところだろうか。(お断り;年号は原則として、昭和の年で表記した)

【第2回】 学生と新聞記者の時代

 昭和20(1945)年11月に東京高等師範学校に入学、24年3月に卒業した。これは陸海軍学徒転入学措置による。定員の1割程度の編入を認める措置で、私の入った理科二部は同年4月入学が80人ほどだったところに、志願者は数人だったので、口述試験だけで入学した。学校は戦災で校舎の7割を失い、理科と文科の交代授業を行う状態だった。これに食料休暇が重なり、21、22年の授業期間は正味3ヵ月にすぎなかった。

 そして卒業時の年齢は20歳、とても高校の教壇に立てる自信はない。家庭教師や定時制高校の講師で学費は稼げそうなので、旧制東京大学文学部西洋史学科を受験したら、運よく合格した。約30人のうち、専門学校出身が8人ほどいた。

 戦前旧制帝大は旧制高校卒業者を入学させ、欠員のある場合のみ専門学校からも入学させる制度だった。しかし昭和21年からは占領軍の指導だろうが、専門学校卒にも旧制高校卒同様に受験資格を与えた。東大や京大にも女子学生が登場するようになった。

 戦前の東大文学部には、学卒就職という視野はなかった。ひたすら研究を志す者、僧侶や神職など「家業」を継げばよい者、華族や富裕家で生活に困らない者が主流だった。英文科などで稀に選抜があっただけで、大半の学科は無試験だった。

 したがって、法学部や経済学部には入学できそうもないが、文学部なら何とかという「その他大勢」も多かった。それが戦後は3倍程度の倍率になった。そこに専門学校出身者が多数入学できたのは、そういう無目的学生との競争をしたということである。

 旧制文学部での卒論の「平均のでき」というのは、新制の修士論文程度かと思う。西洋史学科では卒論が立派な学術書になった方もいる。卒論に着手するのは遅くも3年の春である。準備と段取りをつけてみて、とても1年間では平均水準のものは書けそうもないと分かった。といって貧乏学生では卒業を延ばすわけにもいかない。そのころの西洋史学科では、卒論は提出すれば、よほど出来がわるくなければ合格にしてくれた。そこで卒論は手抜きをして、文学部でも、法学部と差別なく試験が受けられる新聞社をいくつか受験した。運よく日本経済新聞に入社できた。昭和27(1952)年春である。

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 日経新聞では編集局社会部に配属となり23年間もそこを動かなかった。社会部記者としてやることは、全部をやらされた、遊軍記者・事件記者・官庁記者・取材キャップ(以上11年)、部次長(デスク、5年)、編集委員(専門記者、2年)、社会部長(5年)である。この間に、大学を中心に教育問題を大分扱い、人生の後半の仕事に繋がった。

 一例だけ挙げると、文部省記者クラブ詰めだった昭和35年2月16日から11回にわたり「大学の素顔」を連載した。新制大学が10年を超し、中央教育審議会がのちに「38答申」となる、文部大臣からの諮問を受けようとしていた時期である。一回約2500字程度の読み物である。以下は各回の主見出しである。

 ①事務局長の嘆き、②自治という武器、③お家騒動、④国立大学づくり、⑤文理学部は悩む、⑥たこ足学部、⑦私大のやりくり、⑧金を食う理工系、⑨安い先生の給料、⑩学者不足、⑪どう改革するか。主要図書館にある縮刷版で読んでいただければ幸いである。手前味噌だが、今日にも続く大学の諸問題・諸側面が、わりと描かれていると思う。

 【第3回】 高等教育政策の追究に

 私が大学・高等教育の行方を見続けるようになった重要な契機は昭和43(1968)年からの3年ほどの間に集中している。

 その第一は「大学紛争」である。同年春に医学部紛争から拡大した東大紛争は、翌年の入試中止という事態にまで及んだ。その影響は全国の大学にも及び、翌44年8月、国はついに臨時大学立法を制定して、この収拾を求めることになった。法律成立の直後に大学内に警官を出動させ、暴力学生による封鎖を解除した第1号は広島大学だった。

 私は長い紛争期間の節目ごとに、日本経済新聞の教育問題担当編集委員として、かなり長目の評論を書かなければならなかった。自分でいうのは面はゆいが、総じて正鵠を得たものだったため、概して好評だった。この時期を総括したものを、『大学政策・改革への軌跡』(玉川大学出版部、平成14年刊)内の一章に纏めてある。

 第二に、昭和44年6月から翌年まで、当時月間だった『リクルートNEWS』(A4版、24頁)に、「大学世相史」という読み物を18回にわたり掲載したということがある。当時は「明治百年」とか「学生百年」を契機に「歴史の研究」が流行した時期だった。この数年後に国立教育研究所が『日本近大教育百年史』全10巻を刊行した。

 私は『リクルートNEWS』の連載を、おこがましくも、「東京大学のルーツは、通説の蛮書調書より古い天文方に求めた方がよいのではないか」という書き出しで始めた。当時は若く、大学紛争観察により生じていた熱気もあってのことで、いまでは汗顔の至りである。しかし、「リクルート社」がまだ神田の小さな貸しビルにあった時代だからこそ、無名の私に執筆を求めてきたのかと、懐かしく回顧する。

 第三に、文部省の「私立大学審議会審委員」への就任(昭和43年11月)、「大学入試改善会議」への「協力者」としての参加(同44年6月)ということがあった。

 当時の私立学校法にある私大審というのは、占領時代に私学団体とGHQが協同して、政府に強引に作らせた組織で、委員20人のうち中立委員は5人しか入れず、あとは私学団体の推薦者が占める組織だった。この5人には中立性の担保という重要な役割がある。

 私大審の主要任務は大学・学部・学科等の設置認可で、新設を希望する法人に対しては絶大な権限を持っていた。しかし、いったん認可になれば、まずい所があっても変更を命令する権限はない。このため財政面と経営者の人格の面で問題のある大学も多かった。そこで法的権限ではないが、設置後4年間は毎年事後調査を始めていた。また、昭和44年から経常費補助が始まり、その見合いで学校法人会計基準も制定された。こういう私学経営の内容を数字も含めて知り得る立場にある委員になったために、私の目は著しく肥えた。昭和50年代になって、「高等教育の計画的整備」などを検討するのに裨益した。

 「大学入試改善会議」というのは、昭和50年代後半からは毎年、個々の事項では、高校と大学側に了解がついている翌年の入学者選抜方法の準則を包括的に決めるセレモニーのような会議になった。しかし、この当時は共通一次試験を実施するかどうか、国立大学の1、2期校制度をどうするかといった根本問題を検討していた。そのため内外の入学者選抜方法の資料なども豊富に提出されて、知見を広めた。のち臨時教育審議会専門委員として、現大学入試センター試験を導入すべきことを自信をもって提言できたように思う。

【第4回】 高等教育研究者への期待

  「研究者」という言葉をどう定義したらよいか。相当数の仲間に研究のパラダイムとかディシプリンが認知されている。研究の範囲を限定した者の集団のような学会が存在する。そこで研究発表会をつつがなく行えば、認知される。その段階を卒業してシニア会員になれば、発表の司会・進行をする。さらに、学会誌の編集に携わったり、学会の理事になったりする・・・と定義すれば、私は研究者の先輩ではない。この企画である「期待の言葉」を述べることはできない。そこで私は、「研究者」を広くとらえたい。

  うらやましく、また尊敬する研究者を敬称抜きで二人だけあげる。

  一人は「地域研究」の草分けである岩村忍(1905-88)。米国とカナダの大学などで社会学・経済学・近代史などを学び帰国して、昭和6年に新聞連合社(のち同盟通信、共同通信)記者になり、ロンドン特派員などを務めた。戦争中、文部省に民族研究所が成立するとともにその部長になり、モンゴルなどの調査をした。戦後は内閣調査官などを経て、昭和24年京大・人文科学研教授となった。数年後にはインド・パキスタンに赴き3年余り滞在し、その間に西域・中央アジア・イランに足をのばした。論文や専門書も多いが、昭和30年代に中央公論社が刊行した『世界の歴史』シリーズの第5巻「西域とイスラム」を書いている。英・仏語のほかモンゴル語・ペルシャ語・中央アジア諸語にも通じた語学の天才で、また行動力も抜群だった。通信社記者時代は満州事変直後のリットン調査団に同行取材した。戦後は3年半も米・ソの勢力圏が接する地域をジープを駆使して調査して回った。

  もう一人は、教育学に近い人だから皆が知っている永井道雄(1923-2000)である。永井は昭和19年に京大文学部哲学科を卒業、戦後ガリオア資金での留学を経て、東京工大で教育社会学の教授になった。そして昭和40年に、当時は名著といわれた『日本の大学』(中公新書)を刊行した。大学紛争の時代に朝日新聞論説委員になり、同49年三木武夫首相のもとで文部大臣を2年務めた。永井は父君柳太郎(戦前の代議士・閣僚)の縁から自民党でも村松・三木派に繋がる毛並みではある。しかし毛並みだけで大臣になったわけではなかった。「四頭だての馬車」というキャッチコピーを案出して、入試改革・教育課程改正・高等教育計画・学歴主義打破という、当時すでに個別に進行しようとしていた政策をまとめて、国民に説明した。「大臣たるもの纏めが肝心」ということである。永井の前にも後にも、そういう纏めが乏しいという痛烈な指摘だと私は思う。

  地域研究といった分野は岩村のようなマルチの専攻、マルチの職業を経た者により開拓され、やがて研究者と呼ばれ、処遇されるようになった。これに対して永井の時代、東大と東京・広島の文理大には教育学科があっても、京大文学部では哲学科のなかの1講座に過ぎなかった。したがってそこから教育学者になっても一向に差し支えないが、永井には、『教育社会学研究』に掲載されるような論文があるわけではない。

 研究者への道として、一つには先輩が開拓し、ディシプリンが確立しようとしているレールのなかで、それを豊かにさせていくという仕事の方法がある。それを否定するわけではない。しかし、先輩の研究者とは別の分野で、ないしは別の方法で、場合によっては「造反して」進んでみるという姿勢も必要だと、私は思う。

< 完 >